2010年8月3日火曜日

年輪

生え散らかった森ではなく、少なくとも人の手が介されている森だから、所々に切り株が見られる。古くなった樹、あるいは近づきすぎて育った樹が、それぞれ切られてゆく。
私たちはひとつの切り株の前で、ふと立ち止まった。
それはあまりに大きくて。私たち二人が乗っても、びくともしないほど立派で。
私たちは切り株に腰掛けた。

ねぇ、この切り株の年輪、数えてみようか。
いや、数え切れるわけがないよ、こんなにも大きいのだもの。
そうだよね、この根の絡み合った様、見て。
それだけ地中深く、眠ってるってことだよね。

私たちは一度立ち上がったが、また座り、じっと切り株の感触を味わった。
冷たくもあたたかくもなく、なんというかこう、じわりと時間の堆積がお尻から伝わってくるような、そんな重さがあった。

誰が切ったんだろうね。
切るときどんな気持ちがしただろう。
切り落とされた樹は、何処へ行ったんだろう。
何かに使われてるといいね、こんなに立派な樹だったんだもの。

たとえば誰かの家のベンチだとか、たとえば誰かの絵の額縁だとかに、この樹が変化していたら、素敵だろうに、と思った。
どちらからともなく、私たちは、切り株に耳を当てていた。もちろんそこから、呼吸する音も何も聴こえるわけではないことは分かっていたけれど。それでも。

生きてたんだよね。ここで。
うん、生きてた。
長い長い時間がここに在った。
そうだね、とてつもない長い時間が。

今ももしかしたら切り株の何処かの欠片が、ぷつ、ぷつ、と呼吸してるんじゃないか。そんなことを信じたくなるような、そんな切り株だった。