2013年12月30日月曜日

ありがとうございました


今日で今年の書簡集での展示も無事終わります。
長いようで短い時間でした。いつもそう思います。
訪れてくださった方々、遠方からエールを送って下さった方々などなど、
本当にありがとうございました。

そして今年も、終わってゆきます。

来春、4月5日から5月5日、
REMINDERS PHOTOGRAPHY STRONGHOLD
http://reminders-project.org/rps/aboutstronghold/
にて、「杏子痕~彼女の肖像」の展示をします。
気持ちを切り替えて、その準備に私は入ります。

今年一年、お世話になりました。
よいお年をお迎えください。
そして来年も。
どうぞよろしくお願いいたします。

にのみやさをり

2013年12月3日火曜日

風の旅人復刊3号に

12月1日、風の旅人復刊3号が発刊されました。
http://www.kazetabi.jp/

この3号に、「彼女の肖像~杏子痕」が掲載されました。

私の手元に今、この3号があります。でも、まだ正直、ちゃんと自分の頁を見ることができていません。そして今日、彼女にこの本を手渡してきました。

彼女がにっこり笑ってくれたことが、何よりの私の励みです。
そして。
これを読んでくださるあなたの声が心が、私たちのこれからの励みになります。

よかったら、読んで、見て、ください。

2013年11月22日金曜日

「憶懐景」はじまります

今年の展示もあっという間に後半戦に突入します。
明日から
「憶懐景」がはじまります。

「憶懐景」は去年展示した「去棄景」の延長線上に在ります。
去棄景は、会場で販売しております手作り写真集でご覧になっていただけるかと思います。
それも合わせて、会場で珈琲を飲みながら、楽しんでいただけたら嬉しいです。

にのみやは、現在子育てに夢中なため、常に会場にいるわけではありません。
でも、数日前にご連絡いただければ、
息子を抱えて会場に駆けつけたいと思っています。
お気軽にご連絡くださいませ。


どうぞよろしくお願いいたします。

2013年10月28日月曜日

本の販売について

写真展、はじまりました。
これから前期後期と合わせて二ヶ月間、どうぞよろしくお願いいたします。
なお、にのみやは常に書簡集に詰めていることが現在できません。
事前にご連絡いただければ、できるかぎり会場にいるようにいたしますので
どうぞお気軽にお声かけてください。

さて、書簡集では現在、

写文集「声を聴かせて 性犯罪被害とともに」(2100円)

写真集「鎮魂景」(2500円)、

手作り写真集「去棄景」(2000円)、

を販売しています。

見本をそれぞれ置いてありますのでご覧になっていただけると嬉しいです。
ほしいなと思ってくださったらお気軽にお店の方にお声かけてください。
よろしくお願いします。

2013年10月20日日曜日

展覧会と写真集「去棄景」販売のお知らせ


立て続けになって申し訳ないのですが、展覧会のお知らせです。

10月27日から12月30日まで、
東京国立市中2-3-7 書簡集 にて、写真展を催します。
お近くにおいでの際は、ぜひお立ち寄りください。
おいしい珈琲と一緒に、作品を楽しんでいただけたら、とてもとても嬉しいです。

そして。
今回、去年展示した「去棄景」の写真集(20photos + 1print)
を、会場で販売します。
限定50部の販売となります。


 



基本、会場での販売になりますが、
「会場に今年行くことができない」や、「場所が遠くて無理なの」という方の中で
もしご希望の方がいらっしゃいましたら、郵送させていただきますので、
お声かけてください。

手作り写真集「去棄景」
総頁40頁(写真20点掲載)に、一枚、Lサイズのプリントを付しています。
一冊 2000円 となります。
※郵送料(ゆうメール) 250円

ご希望の方は、saori.ninomiya05(a)gmail.com
まで、ご一報ください。詳細は改めてメールさせていただきます。

さぁ、写真展まであと僅か。
せっせと準備に励みます!

2013年9月25日水曜日

写真展のお知らせ




今年も写真展開催します。
場所は、例年通り、東京都国立市にある書簡集です。

「鳥翔景」(人物写真)2013.10.27~11.22
 

「憶懐景」(心象風景写真)2013.11.23~12.30
 

会場は珈琲店です。おいしい珈琲やケーキと一緒に作品を眺めてしばしの時間を楽しんでいただけたら、とてもとても嬉しいです。
DMご郵送ご希望の方は、お知らせいただければ、嬉々として郵送させていただきます。
お気軽にお申し付けください。

なお、会場にて、限定部数の小冊子を今年販売予定でいます。
詳細は、もう少し期日が近づいたら、ということで。
しばしお待ちください。

どうぞよろしくお願いいたします!
 
 

2013年7月8日月曜日

花迷子-11


二十歳になり、二十歳になったことで「そんな子どもっぽいことを」とか「もう二十歳でしょ」とか、勝手な括り方をされてしまう。それが彼女にとっては自然に滲み出ただけの事柄であっても、他人は勝手に評する。
それに対して彼女は必死に抗っていた。足掻いていた。
それでいいんだと私は思う。どれほど抗ったって足りないだろうとも思う。そうやって、彼女が彼女自身納得のいく人間に辿り着けたなら。
それには、多分まだまだ時間がかかる。彼女はその道中できっとずいぶん傷だらけになるだろう。それでも。
足掻いて足掻いて、抗って抗って。
そうしてひとつひとつ、年を重ねて皺を刻んでいってほしい。そして最後の最後、私は私をちゃんと見つけた、育んだ、と、彼女が納得できますように。

私はそれを、願ってやまない。

(「花迷子」 終 )

2013年7月3日水曜日

花迷子-10


撮影が終わって、彼女に改めて問いかけた。
私に伝えておきたいことってある?と。
すると、こんな言葉が返ってきた。

「男女関係ないお友達だけがいれば、きっと生きやすくなるのにな。でもそうはいかないし、私のような考えのひとは少ないこともわかっています。わかってもらいにくいことだとも、知っています。
だから自分は少女(こども)で通していきたいし、わがまま言っているように見せて変に好かれないようにしてます。
自分がそうすることでしか、女性から抜け出すことはできないのかなって。
でも、人に恋愛感情は抱いてしまうので、いろんなことが悲しくて仕方ないです。

子どもなだけ、ではない。大人になれば、とか年齢的なことでもないと自分では思うんです。諦めるか、貫き通すかしか道はない気がします。いまのところ。
でも、友達でもなんでも、人を愛することは大事なので、それはこれからも胸にしっかりと刻んでおきたいです」

(「花迷子-11」へ続く)

2013年7月1日月曜日

花迷子-9


それは多分。
彼女が今、両極を行ったり来たりしているから、なのかもしれない。
オトナになりたくない。自分が思う納得できるオトナにならなってみたい。
女性になりたくない。そのくせ恋愛感情はしっかり抱いてしまう自分。
いろんなことが、ごちゃまぜになって、今、彼女の中に在った。
だからこそ彼女は、そんな自分に正直に戸惑い、素直に惑っていたのだろう。

(「花迷子-10」へ続く)

2013年6月27日木曜日

花迷子-8


撮影も中盤を過ぎた頃、裸足になってもらっていた彼女が笑い出した。

「裸足って気持ち良いですね!こんなに気持ち良いって忘れてましたぁ!」

普段人ごみに塗れた街も、この早朝という時間帯はがらんどうで。まさに言葉通り、私と彼女しかいなかった。それもきっと彼女に作用していたろう、彼女は踊るようにスキップしていた。
それなのに。それなのに何故だろう、私はカメラを通して彼女を見つめると、どうしても踊りながら泣いているように見えてしまうのだった。

(「花迷子-9」へ続く)

2013年6月24日月曜日

花迷子-7


彼女のこの戸惑い、共感できる人は結構いるのではなかろうか。男性より女性の方が露骨に体が変化してゆく。胸が膨らみ生理が始まり、体の線は丸くなり凹凸がはっきり感じられるようになってゆく。あまりの変化の早さに戸惑い、逃げたくなった覚えのある人が彼女の他にも多くいるのではなかろうか。
女の性に染まってゆく己への戸惑い。勿論逆に誇らしく感じるという人たちもいるだろう。大人に近づいてゆく、少女から女性へ変化してゆくことを誇らしく受け容れてゆける人たちも。
でも、彼女のように、戸惑い、嫌悪し、罪悪感まで抱く、そういう少女たちもまた、存在する。私は現実に、彼女の後ろに夥しい数の、女性になることを必死に拒否している少女たちの姿が見えるような気がした。

(「花迷子-8」へ続く)

2013年6月20日木曜日

花迷子-6


オトナになりたくない。なりたいけどなりたくない。
そのオトナになりたくないという彼女の言葉には、彼女特有の意味も込められているように感じるのは私だけか。それは、「女性になりたくない」とも聴こえるのだ。
というのも。出会った頃彼女がこうも言っていたからだ。私、自分の女っていう性がキライなんです、と。

「自分が女だというのは信じられないです、正直。
うまく言えないんですが、体ばっかり勝手に大人に(女に)なっていってしまって、小さいころから、女の人に近づいていくのが嫌だと思っていたので、どうしよう、って思っています。
女の人として男の人と向き合うことは、自分の場合のみですけれど、『汚れる』という罪悪感があるんです。
…性ってものを思うと、浮かぶのはだから、私の場合罪悪感です。
でもそれは、女でごめんなさいというよりは、どうしてこういう体なんだろう。どうして女性的なんだろうっていう…。
この体が、誰かの性欲に関わってなければいいのに、と思います」

(「花迷子-7」へ続く)

2013年6月17日月曜日

花迷子-5

 彼女は出会った頃こんなことを言っていた。私、オトナになりたくないんです。
だから今回改めて彼女にそれを尋ねてみた。
すると彼女は、オトナになりたいし、同時になりたくない、と応えてくれた。

「心のなかの神様を大事にできる大人です。
それは多分良心……だと思います。
ひとのことを考える、思いやりをもつ、相手の立場になってみることのできる大人にもなりたい。
オトナになりたくないっていうのは、オトナになると大事なことを忘れてしまう気がするから」

じゃぁどんなオトナになりたいのかと彼女に尋ねると、彼女はしばし考えた後こう応えてくれた。

「人に流されない人間でありたいです。自分の意思を持ち続けられる人でありたいです」

(「花迷子-6」へ続く)

2013年6月13日木曜日

花迷子-4


私が言った人形のイメージと、彼女の抱く人形という言葉へのイメージは、かなりの隔たりがあった。恐らく彼女にとっての人形或いはぬいぐるみというのは、とてもあたたかな、そしてやわらかいイメージだろう。一方私が抱く人形という言葉に対するイメージは、まさに虚ろ、ひんやり、空洞、といったものだった。
でも私は事前に、この人形という言葉に対するイメージの差異について、敢えて触れることはしなかった。彼女が思うとおりにまず動いてもらおう、そう思った。

(「花迷子-5」へ続く)

2013年6月10日月曜日

花迷子-3


彼女は撮影に当たって大切にするぬいぐるみを持参してきていた。お人形といわれたとき思いついた、と彼女は話す。それに、カメラの前に立つのにひとりよりふたりの方がちゃんと立てる気がして、と。
そんな彼女は最初ぬいぐるみを両手で前にかき抱いていた。大事そうに、というよりも、まるでしがみつくかのような具合だった。彼女はそのことに気付いていたろうか。だからあぁ彼女はずいぶん緊張しているのだなと知ることができた。

(「花迷子-4」へ続く)


2013年6月6日木曜日

花迷子-2


その朝早く、私達は家を出た。まだ日が昇る前の時間、私達はめいめい自転車を飛ばし、目指す場所へと急いだ。
日が昇る前に少しでも何枚か撮っておきたいと思ったからだ。
びゅんびゅん飛ばす私の運転を、眼を丸くして、果ては笑い出し、それでも必死について行こうと懸命にペダルを漕ぐ彼女。その無心の一生懸命さは、彼女がいつも他者に対して持つものだった。
そう、彼女は常に、全力で他者と対峙する女の子だった。相手がどう斜に構えていようと関係ない、自分は真っ向勝負する、という気概がいつも彼女の肩あたりに感じられた。私はそんな彼女がとても好きだ。だからこそ、彼女の奥底を覗きたくなった。

(「花迷子-3」へ続く)


2013年6月3日月曜日

花迷子-1


彼女の写真を撮ろうと考え始めたとき、浮かんだのは、虚ろな人形、だった。
理由は幾つかあって、その一つは、彼女が常に鎧を着ているように見えたこと。本心(本性)を押し隠し、にっこり笑っている笑顔が印象的に見えたこと、だ。
彼女と接する時間を重ねれば重なるほど、その印象は強くなった。何故こんな鎧を着ているのか。着ねばならなくなったのか。私はそれを、とても知りたいと思った。
また、彼女の笑顔は悲しいほど明るく弾ける。口元目元、体中で弾ける。なのに何故だろう、時折瞳の奥だけが置き去りにされているような、笑っていないと思わせる翳がよぎるのだった。
そうした私が受けた印象が、虚ろな人形、というものを思い起こさせた。
だから彼女に写真を撮らせて欲しいと伝えると同時に、私は、空っぽの、人形に見立てて撮らせて欲しい、と伝えた。

二十歳になったばかりの彼女は、全身生気漲っている。漲っている、はずなのに、何故こんなにも瞳の奥底が暗く沈んでいるのだろう。それがとても、私には気がかりだった。
だから、いっそ、虚ろになってもらえたら、彼女の本心がむしろ浮き彫りになるんじゃなかろうか。そう思った。


2013年4月29日月曜日

おいなりさん

小学生の頃、おいなりさんが苦手だった。食べたことはなかった、見るのが酷く苦手だった。
小学校の運動会でのお弁当といえば、おいなりさんは定番の品のひ
とつで。でも、私の弁当はたいてい私自身が作ったものであり、母の気持ちの込められた弁当とは違っていた。自分で作った弁当だから何が入ってるかなんて最初から分かっているし味も全部知っている。おもしろくも何ともない、要するに私にとっては冷たい他人事の弁当だった。
それが、周囲を見回せば誰彼の弁当も華やいでいて。その中でも手間のかかったおいなりさんは、ひときわ輝いて見えて。
だから、私はおいなりさんをどうぞと差し出されても決して箸をつけなかった。いや、つけられなかった。申し訳なさ過ぎて。私にはこれを食べる資格はないと思えて。
資格がない、私にはその資格がないから母も作らない―――そうでも思わなければ自分の気持ちがやりくりできなかった。普段の学校は給食で誤魔化されていても、こうした運動会や遠足といった行事になると、弁当が登場し、そうして私はそのたび、惨めな気持ちになってぺしゃんこになるのだった。

今、家族を持つようになって。
最初の夫の頃、私は料理をするのが怖かった。必ず残され棄てられる。気に入らない味付け歯応えのものは、容赦なく残され、棄てられる。それを目の前で為される。見るのがとても辛かった。厭だった。

娘と二人暮らしになってようやく、私は久しぶりに安心して料理をするようになった。娘と二人きり、とても気楽だった。気兼ねなく自分の好きなものを、好きなように作り、二人で食べた。

今新しい家族の為に私は毎日料理をする。幼子がいるとなかなか思うように時間が取れなくて充分な料理ができないのは事実だけれど、でも。
できるだけ作りたいと思える。それはとても幸せなことだと思っている。
食べてくれる人がそこに在て、食べてもらえると信じることができて。
いただきます、ごちそうさま、が、何気なく当たり前に交わされる食卓。

そうして私は或る日突然あの、おいなりさんを思い出した。
あぁ、今なら作ることができるかもしれない、自分にも。そう思えた。だから、見よう見真似で作ってみることにした。

作って、そうして、皿に並べて。食卓の中央に置かれた大皿の上、おいなりさんは艶々と輝いて見えた。娘の口の中に、彼の口の中に、おいなりさんがひとつずつ運ばれてゆくのをぼんやり眺めながら、幸せっていうのはとてもささやかな、だからこそつい見落としてしまうものなのだなと納得した。翻って、ささやかだからこそ大切な大切な、ひとかけらなのだな、と。

母がおいなりさんを作らなかったことには何か理由があったのだろうか。今ならそれを尋ねてみたいと思う。でも。きっと実際には尋ねない。もう、尋ねる必要がないからだ。
なぜなら。
私は、おいなりさんや弁当を作ってくれなかった母を、もう恨んではいない、と気付くことができたから。

あの頃、母が料理をほとんどせず、あの人の背中ばかりを見せ付けられる毎日を私が送っていたからこそ、今こうして、家族にせっせとご飯を作りたいと思うのかもしれない。
あの頃、母や父から無言のうちに圧し掛かられていたその精神的肉体的圧力のおかげで、私は今こうして呼吸できているのかもしれない。
そんなことを、思うから。

別に、父母を赦そうとか何だとか。
もはやそんな大袈裟なことでも何でもなく。
あぁあの人たちもきっと、あの人たちならではの人生を今日の今日まで背負って培ってきているのだなと、そう思うから。

私は私の人生を、しかと掴んで、積み重ねて、死んでいけばいいだけだ、と、今なら思うことができる。
他の誰の為でも何でもない、ただ、私の為に私の幸せを味わっていい、ただ自分の為だけに私は私の大切な人たちを愛し慈しんでいい。そう、思うから。

おいなりさん。
また作ろう。



2013年4月24日水曜日

赤子の柔らな手を眺めていると、つい、食べたくなってしまう。
はぐ、っと、口の中に含んで、大事に大事に食べたくなってしまう。

老人の皺刻まれた手を眺めていると、つい、頭を下げたくなってしまう。
その年輪のような皺を、そっとそっと撫でて敬わずにはいられなくなってしまう。

どちらも手。
いとおしい、手。

2013年4月20日土曜日

桜散るあの場所に、

これらの写真を撮影してからほぼ一年が経過しようとしている。その間に、彼女を取り囲む環境も彼を取り囲む環境も、どれほど大きく変化したろう。
今この写真たちを見つめながら、時の為せる業に私は改めて思いを馳せている。

あの日。
私は二人に、ひとつだけ注文を出した。
恋う二人を撮りたい。

彼の二倍は年上の彼女と、若い彼とに、それが醸し出せるのか。
でも何だろう、私の中には、大丈夫、という言葉が浮かんでいた。二人なら多分、大丈夫、と。

彼の日常は、学生でありつつ、演劇(舞台)を目指す若者。
彼女の日常は。
性犯罪被害者でありながら癌と難病・サルコイドーシスを患い治療に励む女。
そんな二人が、二人の日常の延長線で交わることはまず、在り得ない。
それが、ひょんな縁でこうして撮影を共にすることになった。

「僕、モモさんについていきますから。お願いします」
「うん、よろしくねぇ」
彼女の、生まれながらのふわりとした雰囲気が、彼をすっぽり包み込むのを、その瞬間私は見た気がした。

時は桜の花が散り出した頃。

まだ裸足には冷たい土。
項を容赦なく撫でてゆく凍えた風。
二人はカメラの前で震える体を必死に手のひらで擦り合って温め合っていた。
そんな二人に、散り始めた桜の花びらがひらり、またひらりと舞い落ちる。

終わりー!という私の掛け声を聴いた瞬間、若者が、さみぃー!と笑いながら叫んだ。
彼女も寒い寒いと言いながら必死に足を摩った。
それでも、みんな、何故か笑っていた。
朝日は昇り、三人をすっぽり、包んでくれていた。

これから先。
二人が出会うことはもう、ないのかもしれない。
でも。
ここに、在た。二人はここに在た。

私の、ここ、に。