2010年5月30日日曜日

階段

昔から、階段が好きだ。
小さい頃は、螺旋階段に憧れた。あの、回りながらのぼってゆく階段は、天に続いているような気がしていたからだ。ここをずっとずっとのぼっていったなら、きっと天空に届く、そんなことを、本気で信じていた。きっと届く、と。
今はもう、そんなことを信じているというわけではないが、でも、階段という存在が好きだ。何だろう、一段、一段、のぼってゆくたび、見える景色が微妙に違って。その差異が、たまらなく好きなのだ。あぁ私は今、また一段あがったんだな、という実感が、そこには在る。

好きなくせに、私はよく階段から落ちた。勢いよく駆け下りすぎて、あと数段というところで滑り落ちるとか、足を掛けてのぼるつもりが、ちゃんと足が掛かっていなくて、そのままずべっと落ちるとか。そうやって何度も何度も怪我をした。

この階段は、もう誰も住む人のいなくなった家の、玄関に続く階段だ。五段ほどしかない、小さな階段。周りにはもう、草が生い茂り、もう少ししたら階段を呑みこみそうなほどそれは生い茂り。
言ってみればそれは、もはや忘れられた、うち棄てられた、階段だった。
勢いよくのぼろうとしたら、段が崩れて見事に下に落ちてしまいそうな、そんな、朽ちた階段だった。

それでも階段はそこに在り。しんしんとそこに在り。
誰かを待っているかのようだった。そう、待っているのだ、誰かが来るのを。そして自分をのぼってくれるのを、待っているのだ。信じて。
だから、素直に焼くことは、できなかった。素直にグレートーンで焼くことは、私にはできなかった。この階段の纏っている空気を、私は焼きたいと思った。

暗闇の中、ぽっと浮かぶ階段。もう朽ちて、もしかしたら足を掛けたら落ちるかもしれないけれど、それでもここに在ろうとする階段。信じて待つ姿。
それは切ないほどいとおしい、光景だった。

2010年5月27日木曜日

立ち入ること、立ち入らないこと

誰にでも、多分、他人に立ち入って欲しくない領域というのがあって。それは、どうしようもなくあって。でもそれは、とても大切なものなんだと、思う。
それは子供であっても大人であっても同じだ。

誰かの心をノックして、入ってもいいかと尋ね、お邪魔する。その折にも、ここは土足で上がっていい場所なのか、それとも靴を脱いで上がるべき場所なのか、いつもアンテナを張っていたい。そう思う。

でも、何だろう、その、立ち入って欲しくないという標を示すにも、鉄柵より、せめてこんな木の柵であってほしいと思う。
立入禁止、と立て札を立てるより、ここから先はちょっと遠慮してね、と、指し示すほうが、いい。

それにしたって。
立入禁止の場所の、何と多いことか。人の心だけでなく現実の世界でも。
昔は、たとえば港湾地帯といったら、もう入りたい放題の場所だった。まるで迷路のようなその場所を、私はよく、練り歩いた。男には秘密基地が必要なのだと小説の中で書いていた作家がいたが、それは男だけじゃない、女にだって必要なものだと思う。
でも、それはどんどん矯正され。再開発という名でどんどん姿を変えてゆき。今では、迷路なんて何処にもない、ただの平たい、そして、鉄柵で囲まれた場所に変わってしまった。
こんな山の中でさえ、立入禁止の立て看板が、ごまんと並んでいる。
不自由になったな、と思う。

だからこそせめて、心の柵は、鉄柵じゃなく、木の柵でいたい。あとはあなたの気持ちにお任せしますよ、という余白を残した、木の柵でありたい。

2010年5月25日火曜日

夏の断面

信州のとある山の中に、父の山小屋がある。私たちは子供の頃、夏休みや冬休みになると、必ずそこへ連れて行かれた。
友達と遊びたいのに、学校の行事に出たいのに。そう思っても、口には出せなかった。問答無用で連れて行かれるのである。反論なんて、もってのほかである。
その山小屋で、午前中は勉強、午後は家の手伝いをする毎日を過ごした。そして時折、夏は山登り、冬はスキーの特訓を受けた。
だからその山小屋は、私にとって、苦痛の塊だった。

今、夏になると、父母が私の娘を連れてその山小屋へ出掛ける。そこでどうも、私がされたのと似通ったことを、娘も為されているらしい。ただし、午後は手伝いの時間ではなく、遊びの時間に変わった。
そのせいかもしれないが、不思議なことに、娘は何も、苦痛めいたことを言わない。むしろ、勉強さえ終われば好きにしていい、というその午後の時間を楽しみにしているところがある。

或る年、私も数日を、その山小屋で一緒に過ごした。夏といっても、そこは山の上。朝夕は長袖でも肌寒いくらいに冷え込む。でも、或る意味、汗をかかないで快適に過ごせる、ともいえるのかもしれないが。
一緒に過ごした数日の一日を、娘に、撮影につきあってもらった。

ねぇママ、なんでママは写真を撮るの? ママはなんで写真を焼くの? どうしてそれがやりたいの? もう質問ぜめである。
うまく伝わるかどうか分からないけれど、ママは写真を撮ってしか、生き延びることができない時期があったのよ。どういう意味? たとえばね、自分の体全部が、自分のものじゃないみたいに思えてね、それを確かめるために写真を撮ったりとかね。んー? たとえば街を歩く人全部が同じ顔、のっぺらぼうに見えてね、堪えられなくなって、だからカメラを構えて歩いたりね、そういう時間があったのよ。んーーー。ママにとっては、写真は、なくてはならない、相棒みたいなものなの。んーーー、よくわかんない!
そんなことを話しながら、カメラのこっちと向こう、二人、向き合っていた。

それは畑の真ん中に置かれており。山のように詰まれたブロック。娘は早速興味津々でそこによじ登る。
ママ、蟻の行列だよ! やだー、ママ、蟻、苦手なの! えー、ここにいっぱいいるよ! 噛まれないように注意しなさいよ。うん。大丈夫ー!
蟻の行列に夢中になって見入っている娘、私はシャッターを切った。
夏の日差しがとても眩しい、そんな時間だった。

2010年5月24日月曜日

光の中で

私はいつでも自分に自信がなくて、そのくせ人前で虚勢を張ってみせていた。そんな私には、光など決して、似合わないものだと、私は思っていた。
何処までも何処までも、陰の中蠢く存在なのだと、そう思っていた。

写真をやり始めて、光と影の存在を、余計に意識するようになった。光と影とが織りなすその世界に、魅せられていった。そしてなおさらに、光は遠い存在だと、思うようになった。

光の世界は、私にとって、本当にかけ離れたものだった。決して融合できない、そういう代物だった。私が存在してはならない、そんな世界の代物だった。だから、私はどこまでも、陰に融合しようとしていた。

でも。
そうじゃなかった。そうじゃぁなかった。
光と影は、一対の代物であって。決してどちらかだけで存在するものでは、なかった。
そのことを、思い出したのは、娘をもってからだと思う。

光をまとった命が、そこに在った。どこまでも神々しい、光に満ちた存在だった。だから、陰の私が触れたら、それを穢してしまうのではないかと、私はそれを畏れた。そんなこと、とんでもないことだった。だから私は、娘がいとしくて、いとしくて、同時に、怖かった。
娘と素で向かい合うより、だから、カメラを挟んで向かい合う方が、私には素直になれた。
でも。

あぁそうか、光と陰とは一対だったのだと思い出したとき、肩の荷がひとつ、下りた。私は別に彼女を穢すことなく、ただここに在ればいいだけだった、と。
そのことを、思い出した。

思い出したら、光の中にひょっこり、出てみるのもいいかもしれない、と思えるようになった。私の中の光を、否定せず、受け取ってもいいのだ、と、思えるようになった。日の光を浴びることが、罪じゃぁなくなった。

今娘は、白樺林の、光溢れる林の中、どてんと横たわる。目を閉じて彼女は歌っており。大きな古時計の歌が、高らかに風に乗って流れてゆく。
空は高く高く高く澄み渡り。今雲雀が一羽、空を渡ってゆく。

2010年5月20日木曜日

生まれたての娘の手は、本当に小さくて。私の小指を握るのが精一杯なほどに小さくて。私はあの頃、娘の手を握るのが怖かった。潰してしまいそうな気がして、それが怖くて、なかなか手を握ることができなかった。

少し大きくなって、彼女の手がそれなりに大きさをもってきた頃。私たちはそんなに手を握り合う親娘ではなかった気がする。保育園に行く道程も、自転車で通っていたせいかもしれない。手を握り合うことは、少なかった。それに、私にはまだ怖かった。彼女のぷわぷわとした肉付きのよい手が私のごつい手に触れると、なんだかそれだけで汚してしまいそうな気がして、それが怖かった。

この写真の手を撮る頃。彼女の手はだいぶ大きくなってきて。しぶとくもなってきて。彼女は私が放っておくと、勝手に手を握ってくるようになった。手を握ることに慣れていない母はだから、そのたびどきっとした。

撮りながら、思ったことを覚えている。あぁ、ずいぶんしぶとくなったんだな、と。この手もずいぶん、使いこなされてきているのだな、と。私の手がどんなに汚れていようと、それを跳ね返すだけの力を、持ち始めているのだな、と。そう思ったことを、覚えている。

今彼女の手は、ずいぶんと大きくなった。いつもしっとりと濡れていて、だから私は手を握られると、その温度に戸惑ったりする。照れたりする。もちろんそんなこと口に出すわけじゃぁないから、娘は逆に「ママは私の手、握りたくないっていうの!」と怒り出したりするわけなのだが。

手や足は、人の、年輪なのだと思う。
ごつい私の手のそばで、やわらかいかわいらしい娘の手が蠢く。それに気づくたび、思う。そうだ、おまえは何処までもいけばいい、そうして必要なとき、振り向けばいい、私はここに在るから。

今日もまた、一歩、おまえは進んでいくといい。飛び跳ねて、時に躓いて、泥んこになって、そうしていけばいい。
大丈夫、おまえの後ろには私が在る。私の手は、いつでもここに、在る。

2010年5月16日日曜日

たおやかな光

森を歩いていたときだった。にわか雨に降られた。私は手を繋いでいた娘と共に、茂みの中に入り、何とか雨をしのいだ。
その間に足元を多くの虫たちが通り過ぎた。荷物を持っているものもいれば、私たちのように慌ててどこかに身を隠そうとしているものもいて。なんだかその様はとても、かわいらしかった。
ママ、このまま閉じ込められたらどうする? どうしようか、それもまた面白いかもしれないね。面白くなんてないよ、早くおうちに帰りたい。娘は情けなさそうな顔をして、空を見上げる。その顔に、ぽつぽつと大粒の雨が降り落ちる。
私はといえば。楽しくて仕方ない気分だった。街中では到底味わえない、雨と共に在ることを赦されるその時間が、たまらなくいとしかった。土砂降りになるのも、それはそれでいいかもしれないなんて、気楽なことを考えていた。

そのときだった。まさにさぁっと音がするかのように、辺りが開けていった。
それまで暗い雲に覆われていた空が、ぱっくり割れたのだ。
私たちはその様に、呆気にとられた。ぽかんと口を開けて、空を見上げていた。
そのときだった。
ママ、見て! 娘が指差した方向を見ると。そこには燦々と降り注ぐ光。
娘の足は自然、そちらの方向に向いており。私は娘の背中を見つめながら、同時に光も見つめていた。

ぱっくりと開いた空から、降り注ぐ光はなんとたおやかで。柔らかいのだろう。
辺りの暗さは一変し。葉にくっついた雨粒という雨粒が、ざわめきだした。くっきりと光を浴びて、さわさわ、ざわざわと動き出した。

あぁ、世界の割れ目だ。そう思った。鼠色の雲の裂け目の向こうには青空が広がっており。その青空に共鳴するかのように、風が辺りを渡り、葉が音を奏でた。すべてが洗い立てで。まっさらだった。

あの時の光を私はなんと名づけたらいいのだろう。分からない。でもそれは本当にたおやかで。しなやかで。やわらかく。すべてを包んでも有り余るほどで。
私はシャッターを切った後、そっとその光の方向に手を伸ばした。光は笑いながら、そこに、在った。

2010年5月13日木曜日

大樹と少女

樹は誰もが知っているとおり、私たちよりたいてい永く生きる。何年、何十年、何百年と、年輪を刻む。
この樹は、そうして年を重ねてきた。もはや年を数えることなど、できないくらいに長い時間を経てきた。森の中でも、最も太い幹をもつ樹の、ひとつだ。

娘が幹に耳をつけ、目を閉じる。
何が聴こえる? 私が尋ねると、娘が言う。樹のおしゃべりが聴こえる。
どんなこと喋ってるの? 今お空が青くて、気持ちがいいって。
あぁなるほど。そういえばそうだ。私たちは空を見上げる。全身蒼の空は、何処までもまっすぐに広がっており。それはそれは気持ちのいい天気だった。

樹の脇に、白樺の若い樹の芽が幾つか見つかった。私たちはそれを、そっと抜き上げる。じじの庭に植えよう、そう言って、四つ、五つ、引き抜く。

その時風が、ざざざぁっと渡っていった。森全体が揺らぐ。轟々と、揺らぐ。
娘がその途端、私の足に抱きつく。
ママ、森が怒ってる。

それにしても大きな樹だ。この樹はどこまで生きるのだろう。私が死に絶えても、この樹はここでこうして在るのだろうか。私が見れない娘の生も、見通すのだろうか。
ひよどりがついっと樹に止まる。なにごとかを口走り、再び飛んでゆく。じっと樹のそばに佇んでいると、栗鼠までが現れ、樹の太い枝を渡ってゆく。

空は蒼く蒼く蒼く。森は何処までも静かでたおやかで。その只中に樹は、しんしんと立って、いる。

2010年5月11日火曜日

疼き

父の山小屋の近くを散歩する。娘と手を繋いで。娘は通りのあちこちで花を摘み、後でばぁばにあげるのだと言う。
私はそれを眺めながら歩く。歩いていて気づく。そういえばこの道は数年前まで砂利道だった。それがいつの間にか、アスファルトに覆われるようになったこと。

まだ祖母が生きていた頃。もちろんこの辺りはまだ砂利道で。だから山蟻もたくさんいた。私はその蟻が大の苦手で、どうやって避けて通ろうかといつも苦心していた。
或る日、祖母の後を追って歩いているとき、どわっと蟻が群れになって足に登ってきたことがあった。あっという間の出来事で。私は呆気にとられると共に、ぞっとした。こんな恐ろしい生き物がいるのかと、心底ぞっとした。私の泣き叫ぶ声で祖母が振り向き、祖母が手で払ってくれたが、しばらくの間、足にはひりひりとした痛みがあった。

あの蟻たちは、今頃どうしているのだろう。こんなふうにアスファルトに覆われては、巣を作るどころの話じゃぁないだろうに。
そうして目を凝らす。蟻の巣などもちろん何処にもなくて。

そうして気づく。アスファルトの、道の端っこのあちこちが、ひび割れていることに。私は耳を澄ます。娘も隣で耳を澄ましている。

ママ、道が泣いてるみたいだね。本当にそうだね、泣いてるみたいだ。土の道じゃないから泣くの? どうだろう、分からないけれど、でも、そうかもしれない。アスファルトの下にも土は在って、だから、アスファルトの下の土が、泣いているのかもしれないね。
娘は道に耳をつけ、じっと耳を澄ましている。
そして言う。うん、泣いてる。

確かに、アスファルトの道は、便利かもしれない。でも、何だろう、私たちにはそのとき、道が疼いているようにしか見えなかった。新しいのにひび割れのある道は、何処か哀しかった。

疼く道。疼く土。疼く。
アスファルトの道じゃぁ、裸足にさえ、なれない。

2010年5月9日日曜日

置き去りの少女

娘と森の中を歩いていたときのことだった。ふっと見やると、そこに井戸があった。いや、井戸じゃない、ブロックで囲われた代物が、あった。
こんな場所に水が沸く場所があるわけは、なかった。そうして何とか足を踏み入れ、確かめてみる。あぁ、やはり。ゴミを燃やす場所なのだと、分かった。

もう使われていないらしい別荘が、少し離れた場所に立っていた。カーテンも締め切られ、庭には雑草が生い茂り。もうここ何年、誰もここを訪れる人はいなかったのだろう。それがありありと分かる様相だった。

娘が尋ねる。ねぇ、誰も住まなくなった家ってどうなるの? そうだねぇ、朽ちていくんだろうなぁ。朽ちていくってどういう意味? うーん、腐って崩れていくっていう意味。家って崩れるの? うん、いずれはね、誰も手入れしなければ、廃墟になるよ。廃墟って? 置き去りにされた場所ってことだよ。

そういえば私には、置き去りにしてきたものが、一体幾つあるだろう。自分が生き延びるために、気づけばいろいろなものを置き去りにしてきた。自分の中のサミシイや、切ない、哀しいを、たくさん、置き去りにしてきた。

しばらく前まで、私の内奥では、小さな子供がずっとすすり泣いていた。まだ三、四歳の、小さな子供。多分その頃から私はずっとさみしくて、哀しくて、泣いていたんだなと思う。でもそれを出したら生きてはいけないから、押し殺して、押し潰して、見ないふりをして、ずっと生きてきた。

でももうそろそろ、それに手をつけてもいいんじゃないか、と思う。自分の中の子供とともに、生き直してもいいんじゃないか。私は私の中の子供を、育て直していいんじゃないか、と。

娘が突然言い出す。ねぇママ、あの中から誰か見てるよ。え?! 誰か見てる。じっとこっち見てる。私は目を凝らすのだが、彼女に見えているものが、見えない。
ねぇママ、女の子、じっと見てるよ。
私は何だか、それが自分の中の子供の姿のように思えた。そうだ、待っている。手を差し伸べられることを待っている。私はもう、自分の内奥に目をそむけることなく、受け止めて、行く頃合だ。
私は娘に微笑みかける。そうか、あなたには見えるんだね。ママにはもう見えないけれども。だってママ、いるんだもん。うん、そっか、そしたらまた来よう、また会いに来よう、きっとひとりで寂しかったから、ここに出てきたんだよ。そっか。じゃぁね、バイバイ! 娘が元気よく手を振る。だから私も合わせて手を振ってみる。

大丈夫、また来るよ。そう言って。

2010年5月6日木曜日

森の中の小屋

それはまさに森の中で。木を掻き分けて入っていかないと届かないような場所に、その小屋は在った。
思い返してみると、もう何年も何年も、それはその場所に在り。でも、誰かがそこを出入りしている姿は、一度として見たことが、ない。

森の中、迷い込んだとき、それを初めて見つけた。最初ぎょっとして、それからおずおずと首を伸ばして眺めた。窓も何もない、小さな扉が裏側にあるきりの、小さな小さな小屋だった。
物置にしているにしては、周りに何も家がなかった。鬱蒼と木々に囲まれ、それは在った。

そういえば昔、小さな頃、窓も何もないところに押し込められたことがあった。何が原因でそうなったのかは覚えていないが、閉じ込められた。
徐々に徐々に、目が闇に慣れ、闇が見えるようになってきて。眺め回してみると、壁という壁が蠢いて見えたものだった。それが何より、恐ろしかった。
でも同時に、闇が呼吸しているということが、何処か、嬉しかった。ほっとした。闇も呼吸するものなのかという気づきは、闇を近しいものにした。

私はカメラを持ったまま、小屋をただじっと眺めていた。眺めながら耳を澄ますと、森を渡ってゆく風の音が、さやさやと響いてきた。
こんなに暗い場所でも、風が通り、葉がざわめくのだ。という、当たり前のことに気づいて、少し嬉しかった。確かに辺りの空気は静謐だった。決して澱んでなどいなかった。

時々、カメラを持って歩いていると、こういう小屋に出会う。もう誰にも彼にも忘れ去られたような、窓もない小屋。窓がない、ということが、私を不安にさせるのだが。

そうしてカメラを構え、ファインダーを覗いたとき、栗鼠がとととっと木を登っていった。それは一匹ではなく、三匹の栗鼠で。子連れなのだろうか。私がここに在るにも関わらず、木を登ったり降りたり。忙しい。
あぁ、小屋もこれなら、寂しくはない。そのことを思ったとき、自然にシャッターを切っていた。こうして木々に囲まれ、栗鼠に囲まれていたら、きっと寂しくはない。
それまでひとりぼっちに見えていた小屋が、生き生きとしてきた。私の目の中で、鼓動が聴こえるようだった。

2010年5月4日火曜日

朝顔

娘がまだ保育園の年長さんだった頃。夏休みのはじめに、ひとつの鉢を持って帰ってきた。朝顔の、鉢植えだった。
その観察日記をつけなさい、というのが、夏休みの課題、だった。

大きな大きな、赤紫色の朝顔が咲いた。まっすぐに天を向いて咲く、朝顔だった。ひとふきの風で撓んでしまうほど脆い、朝顔の花びらだった。それでも、それはこれでもかというほど手を広げ、思い切り咲くのだった。

ある朝、それが萎れて。
娘は、ぼろり、涙を零した。
あぁ、終わっちゃった。と、そう言った。

だから言った。いや、終わりじゃないんだよ。ここからなんだよ。
朝顔は、ここから、種をつけるんだ。種をつけて、それを私たちがまた拾って、植えて。そうして来年また、咲くんだよ。そうやって連綿と、続いてゆくんだよ。それが命なんだ。

娘は不思議そうな顔をして、指を伸ばす。萎れた朝顔に、そっと触れる。
種になるんだ。
そう。
また生き返るんだ。
うーん、生き返る、のとも、ちょっと違う。命が繋がってゆくの。
ふぅん。

受け継がれてゆく命が、そこに在った。
やがて花殻も落ち、そこに種が現れた。膨らんで膨らんで、ぱん、と或る日割れた。娘は神妙な顔つきで、その種を大事に拾った。

その種は、じじばばの家の庭で、今も受け継がれている。赤紫色の朝顔。ひとつの、命。

2010年5月2日日曜日

一本の樹は

樹に耳をつけ、じっとしていると、ふつふつ、ふつふつ、と、幹の内奥から音が聴こえてくるときが、ある。
まるでそれは、長い長い時を経て、昇って来た泡粒のような音色で。ふつふつ、ふつふつ、と、何処までも透き通った音がする。

その樹がまだ小さかった頃。
私はこの辺りを、駆け回っていた。何も知らず、ただ駆け回って、嬌声を上げていた。
その樹がだいぶ大きくなった頃。
私もずいぶん年をとり、多少の人の年輪が、感じられる程度には年をとり。
そうして樹の根元に座った。

私はその時、泣いていた。

夏の最中で。陽射しは残酷なほど眩しく。私を焼き尽くすかの如く。燃えていた。でも。樹の枝はちょうど私が座っている場所を守り。
私はその木陰で、泣いた。

今さらにその樹は大きくなり。
そしてその周りには。私の娘たちが、集う。

時の流れは、こんなにもやさしく。やわらかい音色を奏でるものなのだと、樹を見つめていると、いつも、思う。