2018年10月15日月曜日

二人展催します。


にのみやさをり&藤元敬二 二人展「聴くこと」 
Exhibition "Kikukoto" by Saori Ninomiya & Keiji Fujimoto

■今回の展示では これまでそれぞれ写真家として作品を制作、発表してきた二人の写真家、にのみやさをりと藤元敬二とが長田弘の「聴くこと」という一編の詩を基に、それぞれの捉え方で表現した世界を膨らませ、今年あらたに撮影した撮りおろしの新作を展示します。
展示期間中の 11 月 10 日(土) にはオープニング・トークイベントを行います。
どうぞご高覧ください。


■長田弘「聴くこと」

 土が語ることば。泥が語ることば。
 空のひろがりが語ることば。石が語ることば。
 遠くの丘が語ることば。巻雲が語ることば。

 蜂が語ることば。老いた樹皮が語ることば。
 バッタが語ることば。シャクナゲが語ることば。
 昼には、川が、夜には、大熊座が語ることば。

 耳をかたむけるのだ。大事なことは、
 見ることではなく、聴くことなのだと思う。
 誰のためでもなく、誰でものでもないことば。

 眼で聴く。そして、耳で見るのだ。
 けっして語ることをしないものらが語ることば。
 どこにもない傷口から流れだすこと



■ステートメント:二人展「聴くこと」に寄せて

長田弘氏の詩「聴くこと」を繰り返し読みながら、私は黒と白ふたつの点を結ぶその間に拡がる夥しいほどのグレートーンを思い描いていた。言葉に露わになる意味、隠れ潜む意味。光と影のようにそれらは対極に位置するのかもしれない。けれどもそれらは対立ではなく、その間を結ぶ幾つものグレーによって親しく結ばれている。
世界に佇むちっぽけな私。その私を取り囲むものたちの声、声、声―――。目に見える見えない、耳に聴こえる聴こえない、そんな境界線は今は要らない。ただここに佇む私と世界と。その間に横たわる幾千幾百の命と。
私はまず、自分の身の回りを改めて省みた。耳を澄ましてみることにした。すると、そこかしこに小さな幽けき声が潜んでいた。その声を片っ端からこの掌で掬い取るべく、シャッターを次々切った。人間になどおよそ知覚できないレベルで交信している彼ら、何かを発している彼らの、その信号を私は「声」として「徴」として写真に刻んだ。誰のものにもならない神聖な彼らの「声」を。
(にのみやさをり)


奥秩父に源流を持つ荒川。土が、泥が、空が、石が、遠くの丘が、そして巻雲が語るその傍らを、清き水は上流の流れに身を任せてしぶきを上げる。生まれたての人の命がそうであるように、水はただ無条件に語り続ける。
蜂が、老いた樹皮が、バッタが、シャクナゲが語る傍らを流れ。流れる。止まることは許されず、ひたすらに流れる。人間の不浄を受けとめて、ただ流れ続けてゆく。
やがて水は東京に辿り着く。それは既に大熊座の語る時刻。空はすでに漆黒の闇に包まれている。ガサガサと草を踏み、行き場のない男たちが川辺に集う。寡黙な彼らの体から白い液体が溢れ出る音がする。
僕は静かな夜の荒川の傍らに立ち、その傷口から流れだすことばを目で聴き、そして耳で見ている。
(藤元敬二)


■にのみやさをり https://saorininomiya.com
1970 年生まれ。横浜出身。27 歳の秋より独学で写真を始める。性犯罪被害者とのコラボレーション「あの場所から」や「彼女の肖像」、二十代の若者とのコラボレーション「二十代の群像」、舞踏家とのコラボレーション「風の匂い」や「白鳥の帰る日」など制作・発表している。
■藤元敬二 http://www.keijifujimoto.net
1983 年生まれ。広島県出身。これまでに海外での数々のドキュメンタリーフォトプロジェクトを制作・発表してきた。2017 年には ゲイとして育った作家自らの人生を東アフリカの同性愛者たちと掛け合わせた半自叙伝的写真集『Forget-me-not』を出版。現在は東京に暮らしながら新たなプロジェクトの制作を行っている。


ギャラリーOGU MAG http://www.ogumag.com/
東京都荒川区東尾久 4-24-7
交通のご案内
【山手線・京浜東北線】「田端駅」北口より徒歩 8 分
【日暮里・舎人ライナー】「赤土小学校前駅」西口より徒歩 3 分

お問合せ・お申し込み:
ギャラリーOGU MAG 齊藤
Tel: 03-3893-0868 Email. info@ogumag.com

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Saori Ninomiya and Keiji Fujimoto will be having an exhibition titled “Kikukoto” in Nov 2018, at gallery OGUMAG located in Tokyo, Japan.

They took a title of this exhibition from Hiroshi Osada’s poem “Kikukoto”. Particularly, Ninomiya and Fujimoto have taken and chosen photos from each perspectives through expanding the meaning of this poem into their own ways.

Ninomiya tries to re-examine our daily life through collecting faint voices of those tiny objects lying in paths of our usual routine. By recognizing faint voices of those tiny objects, Ninomiya tries to insist objects are there not for struggling, but there for according each other.

Fujimoto pays attention to views of river Arakawa, the river flowing from deep mountainous area of Saitama prefecture to Tokyo metropolitan area. Through comparing silence and pureness of the upper stream with the lower stream where gay men having sex along the metropolitan's night river side, Fujimoto tries to reflect the property and decline of human beings.

Date & Time: Nov 9th to Nov 18th, 2018, 13:00 - 19:00 (closed on Monday)
Location: Gallery OGUMAG, 4-24-7 Higashi-ogu, Arakawa-ku, Tokyo, Japanhttp://www.ogumag.com/
Opening Talk Session: Nov 10th, 17:00-

LINKS
Gallery OGUMAG: http://www.ogumag.com/
Saori Ninomiya: https://saorininomiya.com/
Keiji Fujimoto: http://www.keijifujimoto.net/

2018年2月23日金曜日

呟き/今日という日に

昔、まだ自分の傷が生々しかった頃。性犯罪被害者の数を一人でも減らしたいと真剣に思い行動していた頃があった。とにかく一人でもいい、自分のような目に遭う人を減らしたい、と。
その頃はだから、性犯罪被害者として声を上げられる者がまず行動すればいいと思っていた。たとえば自分。自分は当初から性犯罪被害者だということを明らかにしていたから、そういう自分がまず行動すればいい、と。
たとえば声を聴かせてという相談電話窓口を設けた時だってそうだ。自分のような孤独に陥るひとを少しでも減らしたいという気持ちがあった。被害に遭って自分はひとりぼっちだとひたすら孤独に向かった自分を思い出しては、そういう孤独に陥らずに済むならそれに越したことはない、と、その為に自分にできることは何だろう、と、そういう気持ちがあった。
それを、性犯罪被害者の為に私が行動している、と受け止めた人は多いし、私自身最初はそうなんじゃないかと思っていた。
でも。
いつの頃からか、違うな、と思うようになった。私は自分の為に行動しているだけで、他の誰の為でもないな、と。気づいた。気づかされた。

誰かの為にだけ行動できるほど、私は偉くもないし強くもない。それだけを動力にして行動し続けることができるほど、タフでも、ない。
私は結局のところ、私がこうしたいからする、というところで動いているのだな、と。そのことをつくづく思い知らされた。たとえば悲鳴を上げている誰かに気づいたとして、駆け付けたとして、それも私がそうしたいからした、だけであって、誰かの為、ではない。私がしたいからした、だけなのだ。

この間、あなたは志半ばで諦めるのか、と罵倒された。
正直、言われても、何のことだかちっとも分からなかった。何を志半ばと言っているんだろうこの人は、と、思った。しばらく考えた。考えなければ分からなかった。
ああそうか、この人は私が、被害者の為にこれまで行動してきた人間なのだと捉えているのだなと気づくのに、しばらくかかった。
申し訳ないが。前述したように、私は被害者の為だけに行動して来れるような高尚な人間でも何でもない。ただただ、自分がこうしたいからする、と、それだけでこれまで生きて来た人間なのだ。
あなたの期待に沿えず、申し訳ない。

立て続けに罵倒を受けて、考えた。
この人は私が期待に添わないことをこんなにも怒っているのだな、傷ついてさえいるのだな、と気づいて、心底申し訳なくなった。
でも。
今更己に嘘をついても何も始まらない。私は、そういう位置にはいない人間なのだ。

被害者の為にとか、加害者の為にとか、正直、私にとってあまり重要では、ない。それよりも何よりも私の原動力になっているのは、私がどうしたいか、だ。私がどうしたいか、こうしたい、だからこうする、と、もうただただ、それだけ、なのだ。

もちろん、そこに至るまでに、こうすれば被害者が一人でも減るのではないか、とか、加害者が再犯を犯す度合いを少しでも減らせるんじゃないかとか、いろいろ動機はある。理由はある。こうしたら一人でも傷つく人が減るんじゃないか、とか。そういったものは、いろいろある。山ほど、ある。
でも。
最後の最後、私が行動するか否かを決めるのは、私がどうしたいか、なのだ。他人にとってどうとかそんなの正直問題にならない。ただただ、私がどうしたいか。そこなのだ。

それを身勝手と笑うひとは笑えばいい。おこがましいと罵倒する人はすれば、いい。昔はそういったことに怯えていたけれど、私ももういい歳だ。怯えて逃げても後悔するだけの自分がいることをもう分かっている。
私は私が後悔する生き方をしたくは、ない。私は私が納得いくように生きたい。私が私の人生を引き受けられなくて、一体誰が肩代わりしてくれるというのか。誰もしてくれやしない。私が私の人生を背負うのだから。

今、加害者更生に加わっているのも、私がそうしたいから、だ。そこに辿り着くまでにいろんな思いがあったことは確かにそうだ。被害者を減らしたいとか傷つくひとを一人でも抑えたいだとか、性犯罪は再犯率が高いからとか、なんだとか。私を突き動かしたものたちを数えだしたらきりがない。でも。
最後の最後、私が行動に移る時。
それはただただ、私がこうしたいから、だ。他人の為でも何の為でも、ない。私の為、だ。

私は私に呆れたくない。私は私を諦めたくもない。私は私を貫きたい。私は私として生きたい。私が私であるために今ここで何を私はするのか。
私はそれを自分の軸にしている。
昔はさておき、少なくとも今の私は、そうとしかいいようがない。

だから。
そんな私を見て、あなたは敵だ、と言うひとは言えばいい。あなたは身勝手だ、と言うひとは言えばいい。志半ばで諦めるのかと罵倒するならすればいい。
構わない。
そうだね、と私は受け止めるよ。

私は自分の存在が、存在しているだけで誰かを傷つけ得ると知っている。悲しいかな、そんなもんだ。私が存在しているただそれだけで傷つく人は、結構いる。不愉快に思う人も結構いる。
申し訳ないと思う。
でも。
私はそれ以上に、生きたい。私は私を貫いて生きたい。申し訳ない以上に私はそう生きたい。そう、生きる。

そう、決めたのだ。