その朝、彼は勢いよく現れた。
おはようございます。その第一声からして、気合が入っていることが感じられた。
この日、彼と彼女と私と三人での撮影になるはずだった。が。
病身の彼女の病状が急変し、彼女は突如来れなくなった。
私も彼も、気持ちが抜けてしまい、ちょっと困った。
とりあえず珈琲でも飲もうということになり、珈琲屋へ。
気持ちを切り替えるのは早いはずの私も、さすがの事態に正直戸惑っていた。
選ぶ道は二つ。
二人で撮影するか、それとも二人で喋り倒すか。
そうしてしばらく悩んだ末、彼はぱっと切り替え、撮ってください、と言った。
その方が来れなくなった彼女もきっと喜ぶだろうから、と。
ならば、ということで、二人して小汚い街に向かった。
普段なら私たちはすでに撮り終えている時間帯、つまり町が動き出している時間帯。
そういう時間帯に撮るのは初めてだった。
この撮影の一か月ほど前、彼は自分の作・演出で朗読劇をこなしていた。
その朗読劇を私は、運よく見に行った。
多くを語る必要はない、というほど、その舞台は、彼の「今」を映しこんだものだった。
今の彼にしか書けない脚本、今の彼にしか描き出せない雰囲気が、これでもかというほど織り込まれた舞台。実に爽快だった。
そんな朗読劇を経て、彼はどう変わったろう、と私はレンズ越しに思っていた。
彼は。
自信をつけていた。
同時に。
ひどく傷ついても見えた。
自信がついた分、どうしようもなく自分の嫌な部分も見えてきてしまったのだろう。
自分の弱い部分、醜い部分、辛い部分を、さらに直視せざるを得なくなったのだろう。
そういう、傷つきが、見えた。
でもそれは。
その年代特有の、その年頃でしか得ることのできない、ある種の勲章なんだよ、と
私はレンズ越し、思っていた。
彼に直接言葉では伝えなかったが、
そのことを思っていた。
二十代。
二度とない時代を、駆け抜けろよ。
また、カメラを挟んで向き合う日を楽しみにしている。
2014年9月28日日曜日
2014年7月4日金曜日
足掻けよ
私が彼らを追いかけるのはなぜか。
定期的に、彼らに声を掛け、向き合うのはなぜか。
簡単だ。
私は彼らに興味がある。彼らのことがたまらなく好きだ。だから、声を掛ける。
当然だ、そうでなきゃ声なんて掛けない。
でも。
もうひとつ、理由があって。
それは、
彼らが真剣に足掻いているのが、手に取るように伝わってくるからだ。
どくんどくん、と、その鼓動が、その都度その都度伝わってくるからだ。
このどくんどくんというどうしようもなく生きてるって音が、私はたまらなく好きだからだ。
誰にでも、足掻かずにはいられない時期というのがある。
それがもっとも露わなのが、十代、そして二十代なんだと思う。振り返って、そう思う。
或る程度年齢を重ねてしまうと、開き直りがうまくなる。
その、開き直りがまだまだ下手で、
ひたすら足掻いて息切れしてそれでも叫んでしまうのが、二十代なんだと私は思うのだ。
同じ二十代でも。
いいさ、こんな程度で、と、自分で自分を嘲笑して済ましてしまう奴らもいる。
私は、そういう子らが別に嫌いなわけじゃない。でも、
もったいないことをしているな、と思う。
おこがましいことを承知で言えば、
足掻けるのは、真剣に足掻いて喘いでそれでも走れるのは、今だけなんだぞ、
と、言いたくなるのだ。
三十代にもなると、それでも走り続けることなんて、体力・気力的にできなくなる。
自分の限界、限度を知ってくるが故に、ある程度の守りに入るし、あきらめも出てくる。
良くも悪くも、そうなる。
年齢を重ねれば重ねる程、分別もついてくるし、自分の力量ってものを思い知らされてくるから、知らぬうちに自分の能力に合わせた選択をするようになっている。
でも。
二十代は。
とんでもない夢もまだ見ることができるし、とんでもない思いつきに飛びつくだけのバネもある。
だから。
足掻け、と私は言いたい。
それも、真剣に足掻け、と。
そんなんやってられるか、どうせこの程度さ、なんて年よりじみたことを言うなら、最初からやるな。
何処までも年寄りでいればいい。
残念ながら、若さとは、一度失ったら二度と取り戻せないものなんだ。
だから。
二十代よ、真剣に足掻け、そして、今を駆け抜けろ。
今しかそれは、赦されないことなんだから。
2014年6月16日月曜日
カッコつけ
彼を見ていると、二十代ってのはカッコつけが大事な時期なのだなということを思い出す。
自分ではちっとも気づかなかったけれど、カッコつけてなんぼだ、というような時期なのかもしれない。
自然体、というものがどういうものか、よくわからない時期は確かに私にもあった。
みなのいうところの自然体っていったい何?というような。
もしかしたら彼も、そうなのかもしれない。
自分でいてくれればいいよ、と私は時々彼に言う。
でも彼は、その自分さえ演じようと必死に足掻く。
だから私のカメラには、そういう足掻いている彼が、カッコをつけようと必死になっている彼が、そのまま写る。
でも、
それでいいんだと思う。
彼が演じずにも自分でいられる時が来たときこれらを見返して、
あー、俺こんなことやってたのかぁと苦笑してくれたら、
それで、いいような気がしている。
そもそも。
カッコつけられる時期なんて、この二十代くらいしかないのかもしれない。
カッコつける背伸び加減が、許される時間なんて。
この時期だけなのかも。
そう思ったら、二十代、ほんと、捨てたもんじゃないぜ、と
思うのだよ。
ファイトだ、二十代。
2014年5月25日日曜日
二十代の群像より
二十代の群像というシリーズでつきあいのある若者と撮影に行った。
早朝午前三時に起きだし、三時半には出発。そして目的地の公園に着いたのが午前四時。
でも夏の朝は早い。あっという間に空の色は緩み始める。
冷えるね寒いねなんて言い合っている間に、空は朝焼けの色へ。
撮影開始。
彼とカメラを挟んで向き合うのは二度目だが、彼は実にのびのびしている。いや、
本当は緊張しているのかもしれないが、その緊張を上回るように「楽しい」という感じが伝わってくる。
だから私も思う存分楽しんでいる彼を追いかける。
一度目に撮らせてもらってから彼には本当にいろいろあったらしい。
私が知っている範囲でも、あれもこれもといろいろあった。
でもそのどれもが、きっと彼の血肉になって、肥やしになって今在るに違いないと感じられる。
二十代。
二度とない年月だ、それは。
十代でも三十代でもない二十代にしかできないことがどれほどあるかということは、過ぎてみて初めて知る。
二十代だからこそ赦されること、
二十代だからこそでき得ること、
二十代にしか見えない地平が、確かに在った。私にも在った。
だから、私は彼らに伝えたいと思う。
思う存分足掻けよ、抗えよ、意地をはれよ、見栄をはれよ、肩ひじ張って駆け抜けろよ、と。
朝露でぐっしょりぬれた足で、その日私たちは帰路についた。
また、向き合える日を、楽しみにしている。
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