2010年1月31日日曜日

くねくね歩いて道を往く



それは離婚して半年、ようやく引っ越し先が決まり、この場所へ引っ越してきて間もない朝。散歩しようか。娘に声をかけた。うん、する。即座に娘の返事が返ってくる。といっても、このあたりのことを私たちはまだ全く知らない。とりあえず、通りに出てみる。
大通りを渡り、知らない街へ、とん、と足を踏み出す。一歩裏手に入った途端、私たちを待っていたのは、くねくね続く細い入り組んだ道だった。
ママ、こっちにも道がある。ママ、こっちにも。それはどれもこれも、車の走れない細い道で。人が二人、すれ違うのだけで充分埋まってしまうほどの道で。
私たちは楽しくなって、次々角を曲がる。
庭なんて、殆どない。門構えもない。そんな家々が密集する地帯。トタン屋根が当たり前に広がる地帯。私たちは嬉しくなって、ますます歩く。
もうすでに空家になり、もはや廃屋になっている家屋も幾つかあり。私たちは、いけないと思いつつ、興味津々で中をこっそり覗く。そこに広がっているのは湿った闇で。すっかり冷え切った闇で。私たちは慌てて後ずさる。見てはいけないものを見た気がして。
忘れ去られようとしている街が、ここにあった。街、じゃない、町だ。そう、町。何処か、亡くなった祖母の住む町に似ている。犇めき合って建つ家々。ご飯の匂い、洗濯物の匂い、話し声、笑い声。今や、取り残されようとする町がそこに、在った。
ね、これからさ、ママと二人でここで暮らすんだよ。うん。
そうして私たちは、くねくね歩いて道を往く。

2010年1月28日木曜日

ひとりの余白

まだ港湾地帯が整備される前の頃。そこには棄てられた家屋が何軒か建っていた。以前は何かしらの事務所に使われていたのだろうその建物たちは、私が訪れるたび横に罅が入り、縦に罅が入り、と、いつ崩れてもおかしくない程に錆びついていった。
それでも何だろう、それはそこに在るものであって。なくなることなど、私には考えられなかった。窓の柵に突っ込まれた塵も、もはやそれはひとつの模様だった。立て掛けられた梯子ももはや使い道はありそうになく、それでもそこに、在るべきものだった。
私以外にも時折そこを訪れる人は居り。ほったて小屋のようながらりんとした倉庫によっかかりながらコンビニ弁当を食べる人、何となくその場所を歩きに来た人、ぼんやりとそのあたりから港を見つめる人。みなどこか陰りを持った、ひとりで時間を過ごしたい人たちがそこに、居た。

私が病に伏せっている間に、赤レンガ倉庫がショッピングモールとして生まれ変わり、港湾地帯も整備されて美しい遊歩道に作り変えられた。
或る日訪れたときにはもう、私が親しんだ建物たちは何処にもなく。これでもかというほど美しく整えられた街並みがそこに、広がっていた。

もうここに、ひとりで時を過ごしたい人など、居る余地はなく。私はすごすごと逃げ帰った。もう何処にも、ひとりで海を港を眺めて過ごせる余白など、そこには残っていなかった。

今日もそんな、美しく美しく整えられた地帯に、人々が集う。買い物、食事、散歩、様々な様子が繰り広げられる。でも。
もうそこには、「ひとり」を楽しむことができる余白は、ない。
私はあの場所が、ひどく、恋しい。

2010年1月27日水曜日

空っぽのゴール


それは小さな小さな、猫の額ほどの小さな公園で。遊具も少なくて集う子供らも少なく。ただ、空っぽのゴールがぽつり、二つ置いてあった。
犬の散歩に立ち寄る老人たちがぽつりぽつり、そこを歩いて過ぎてゆく。休日たまに、ゲートボールをする老人たちが集っているが、ブランコを揺らす子供の姿は、本当に稀だ。

それでもゴールはそこに在って。

だから私は寝そべってみた。砂の上、寝そべって、ゴールの下寝そべって、見上げてみた。
がらんどうのゴールの向こう、空が広がっていた。からんと乾いた空が、こちらを見ていた。
ゴールが揺れることは、もうないのかもしれないと思えるくらいそれは、がらんどうだった。

それでもゴールはそこに在って。
ただ黙ってしんしんと、そこに在って。

空が在り、風が吹き、樹が揺れて。
それでもゴールはしんしんとそこに在り。

それは或る晴れた日の、


それは或る晴れた日の、まだ娘が小学校に入る前の春。
恒例の友人たちとの花見。毎年一回この季節にこの場所に集まることになっている。手作りの弁当を持ち合い、わいわいがやがや、酒を飲む大人もいれば、野っ原を走り回る子供たちもいる。めいめいに好きなように時間を過ごす。

そんな中、娘は黙々と散り落ちた花びらを拾い集めていた。他の子供たちが飽きて、他の遊びを始めたにも関わらず、彼女はずっとそうして花びらを集めている。
そうしてすっくと立った。

ママ、こんなに死んじゃった。
涙目の彼女が差し出した両の手の中には、いっぱいの花びら。ちぎれたものもあれば踏みつけられたものもあり。それでもそれはやはり桜の花びらで。
ママ、こんなに死んじゃった。
ううん、死んでないよ。だってあなたがちゃんと拾ってあげたでしょう? これ、押し花にしよう。
ほんと?
うん、ほんと。
涙はすっと引っ込んで、彼女は満面の笑み。そうしてポケットに花びらを詰め込む。あれもこれも、あっちもこっちも。多分本当は、全員を持って帰りたいのだろう。私はそんな彼女をじっと見つめている。

この写真は、ちょうどその、涙をいっぱい溜めて私に手を差し出した、その時の一枚。
結局、押し花の栞は、今はもう残っていない。作ったものの、あっという間に本の間でくたくたになり、消えていった。彼女ももう多分、あんなことがあったことなど覚えていない。でも。
私は覚えている。鮮明に覚えている。ママ、死んじゃった、と差し出した手の中の花びらを。その時の君の瞳を。鮮明に、覚えて、いる。

泣いていた


写真に言葉は必要なんだろうか。
多分、必要ないんだと私は思う。
写真が語ればいい。写真から伝わればいい。私はそう思っている。
写真で伝わり切らないのなら、それはもう、その写真を撮った焼いた私の責任であって。それよりほか、何もない。

それでも敢えて言葉を添えようと思うなら。どんな言葉が添えられるんだろう。

あの日、久しぶりに訪れた公園で。
日は燦々と辺りに降り注ぎ。雲は流れ。風は流れ。
心地よいという言葉がとてもとても似合う天気で。

でも木陰で彼女は、泣いていたんだ。
さめざめと、泣いていた。
駆け寄ろうと思った瞬間、もう私はカメラを構えていた。

後で考えれば、残酷だったなと思う。何故カメラなんて持つことなく即座に駆け寄って肩を抱いてやらなかったか、と。
彼女は泣いていたんだ。
たったひとりで。

そうしてこの一枚が、私の手許に残った。
私に誰かの泣き顔は、撮れそうに、ない。