2014年3月29日土曜日

可能性


娘は三歳までしゃべらなかった。三歳になるかならないかの或る日、突然
「トトロ、トトロ」と言ったのだった。トトロを描いて、という意味だったのではないかと私は受け取り、
一生懸命トトロを、いくつもいくつも描いてみせたことを覚えている。

そんな娘は絵を描くのが大好きな娘だった。のに。
今、彼女は絵を描くことが大の苦手だと言う。
理由を尋ねると
私には、絵の才能がないんだと笑う。
どうして才能がないと思うのと問うと
だってセンスないし、下手だし。

彼女のこの、センスがないという言葉や下手だという言葉はおそらく
教師や周囲から言われた言葉だと思われ。

あぁひとはそうやって、どんどん自分の可能性を周囲によって世間によって狭められてゆくのだなぁということを、しみじみと感じた。

私自身、そうだったと思う。
あなたはこうだから、あなたはこれこれだから、と決めつけられ、それを
繰り返し言われ続けているうちに、
あぁ私にはこの可能性はないんだ、私はこれがだめなんだ、と
自分に枠をはめこみ、いろんなものを切り捨ててきた気がする。

今、もし十代二十代の誰かがこれを読んでいるなら。私は伝えたいと思う。
他人の言葉や視線によって自分の可能性を狭めるな決めつけるなよ、と。
たとえば娘の絵は決してセンスがないわけでも下手なわけでもないのだ、
実際描かせると、こちらが思いもつかないものをひょいっと描いてくれたりする。
そういう、見えない可能性が、君の中にもいっぱいいっぱい、埋もれているに違いないのだから。
周囲からの目なんて気にするな、
自分がこうだ、と思ったことは、貫き通せ。
もちろん、貫き通すのには、ひどくしんどい道程がある。それは確かだ。
でも。

自分を育めるのは結局のところ、自分以外の誰でもないんだ。
自分の可能性を最後、弾けさせるか潰すかは、
自分なんだ。
だから。

自分が信じるなら、それを貫き通すだけの、強さとしなやかさを、身に着けていけ。
私は、そんな君を、応援する。


2014年3月24日月曜日

海へ


海が好きだ。たまらなく好きだ。
せっかく死ぬなら、その時は海が、いい。

特に、荒れた海が好きだ。岩を叩く波が音とともに砕ける様を間近で見つめていると、
自分の穢れも共に飛び散ってくれるような錯覚を覚える。

あの日。台風がやってきた。結構大きな台風で、北の海へ向かって日本を横断してゆくところだった。
それを知って、私は台風を追いかけるように電車に飛び乗った。
窓ガラスががたがた鳴って、滝のように雨が流れ落ち。
そんな中を、私はひたすら北へ急いだ。

でも。
台風はそんな私をあざ笑うかのように、ひらり身をかわし。
私が岸辺に着いた時には、もう離れたところへと飛んで行ってしまっていた。
その時の悔しさ悲しさといったら、なかった。私は台風にさえ取り残される人間なのかと
そんなどうしようもないことを私は嘆いた。

要するに。
私は死にたかったのだ。そして死ぬ場所として、荒れ狂う海を選んだ。
そこに沈んだら、こんな私だって昇華されるような気がしたから。
だから必死に、台風を追いかけたのだ。台風の真下の海だったら、私を飲み込んでくれるんじゃなかろうかと思って。

でも間に合わなかった。取り残された。置いてきぼりになった。
そうして、私は、とぼとぼと、濁りきった海へ入って行った。
もう何でもいい、どうでもいい、と思った。死ねるなら何でもいい、と。
だから海にとぼとぼ入って行った。
じきに頭まで沈んで、ずぼずぼと体は沈み始めた。
あぁこれで死ねるかなぁなんて私はのうのうと考えていた。でも。
体というものは、生きる為に必死に動く。
死ぬためになんて動きやしない。いつだって、生きる為に動く。
この時も、私の身体は私の意に反して、もがき始めた。
苦しい、苦しい、苦しい、クルシイ!!!
体は叫びだし、全身で叫びだし、抗った。
そして気づいた時には、私は空を見上げていた。

あぁ死ねなかった。あの時の絶望といったら、ない。

しばらくぷかぷか波に揺られていた。そして私はすごすご岸に向かって泳ぎ出した。
ずぶ濡れの私は、浜辺ででろん、横たわった。
見上げる空は、どこまでも澄んでいて。そして思い出した。
さっき、ついさっき見た海は、エメラルドに濁っていたっけな、と。

美しい、色だった。それは。エメラルドに濁って、光が乱反射して、
海は、
生きていた。

私は、もう一度生きよう、と思った。ここから生きよう、と。

諦めた。もう、死ぬのは。
死ねないなら、ならば、とことん生きるしかない、と。

私の今は、あそこから始まっている。 




2014年3月19日水曜日

気づける余白


私の毎日は、まさに、どうってことのないものたちで形作られている。
毎朝弁当を作り、洗濯をし、オットや娘を送り出したら息子と二人過ごす時間。
何の変哲もない、ただの一日が、ごろごろ転がっている。

でもそんな、どうってことのない、何の変哲もない日の中にも
ひとつかふたつ、はっとさせられることは詰まっているもので。
私はその、きらり光る瞬間に、はっと立ち止まる。

あぁ今日はこの光のためにあったのか。
この光のためだけに、今日はあったのか、と。

たとえば。
桜の黒褐色の枝には今、びっしりと蕾がついており。
その蕾はまだかまだか、今か今か、と、開く瞬間を待っている。
私はそんな彼らを、樹の足元から見上げ、ガンバレ、ガンバレ、と心の中声を掛ける。
息子はベビーカーの中、大あくび。
今日はこの瞬間を味わうためにきっと、在ったんだ、と思う瞬間。

誰にでもそういう瞬間は秘められていて。
ただ、気づくか気づけないか、だけなんだと思う。

心に余白を持っていたい、気づけるだけの余白を。
だからいつも、そう思う。



2014年3月17日月曜日

小さな、ささやかな、


たとえば。
ベランダのイフェイオンが咲いたとか。ムスカリが咲いたとか。
種から育てているラヴェンダーがまた新しい葉を出してくれたとか。
雲がとてつもなく好みだったりとか。

そういう、所謂どうでもいいことが。私にはどうでもよくなくて。
いつもそういった小さな、ささやかなことたちに助けられ支えられて在る。

たとえば今日は珈琲がおいしかったとか。いやいや和生姜焙じ茶の方が今日はおいしかったとか。
なんだかもう、ほんとに、どうでもいいことたち。

私の「今」は、そういったどうでもいい些細なことたちの集積で、結晶で。
つまり私は、
そういったどうでもいいことたちの塊で。

日常って。
愛しても愛しても足りない。
どうでもいい日ほど、後になって、
自分の蓄えになっていたりする。


2014年3月16日日曜日

平気なんかじゃぁないからこそ、


よく言われる。にのみやは、裏切られて嘘吐かれても、大丈夫、って感じがするよね。と。
なんだそれ、と応じてがははと笑ってやり過ごすが。何言ってんだよ畜生、と思っていたりする。

裏切られても平気、なんて嘘だ。平気なんかじゃぁない。
嘘吐かれても平気なんて嘘だ。全然平気なんかじゃぁない。
そのたび自分の何処がいけなかったのかと自分を責め、苛み、凹む。
それでも笑っているのは、笑うしか他に術がなかったりするからだ。

笑う以外に何がある? 怒ればいいのか? 怒れば何か解決するのか?
否。
怒ったって憎んだって解決することなど何もない。
なら、できることは何だ。
さらり、笑って流して、次に行くこと、そのくらいじゃないか。

だから笑う。
そっか、嘘だったか、と。そっか、裏切りだったか、と。
さらり笑って、がはは笑って、やり過ごす。
でもそういう態度が、平気なように、大丈夫なように受け止められてゆく。
私の心の内と、ひとの解釈との間には、海溝ほどの深い深い溝が生じる。

それでも。
私は笑う。
そうだったか、そんなことだったか、と、がははと笑う。
笑って、じゃ、ここからどうする?と応じる。

それくらい、じゃないか。できることなんて。
私にできることなんて、そのくらいじゃないか。
だから。

本当は平気でも大丈夫でもなんでもなくて、深く傷ついていたって、私は笑う。
笑って、受け止める。
そして、次へ。

私にできることは、そのくらい。


2014年3月13日木曜日

死んで生きて生きて死んで、



夜明けが好きだ。

昼の光より夕の光より何よりも、夜明けが好きだ。
夜明けは夜の続き、と捉えるひとも多いかもしれない。でも私は違う。
夜明けは始まりで。明日が今日になる、今日が昨日になる境目、だと思っている。

だから私は毎日、夜明けの直前に、死ぬ。
死んで、昨日のすべてをざらり洗い流して自分の心を空っぽにして、
そうして、夜明けとともに息を吹き返す。でもそれは生き直すとかそういうのとは違う、
そこから新しく生きる、という感覚。

私は毎夜死んで、毎朝生き始める。
毎日毎日が新しく、そこには決して同じものはなく。

それを見出すまで。私は苦しかった。昨日を引きずって今日を生きていた。
昨日を引きずっているから、今日を生きるのも苦しくて、いつも息絶え絶えだった。
でも、そうか、死んでいいのだ、死ねばいいのだと気づいてから、がらり、変わった。
生きることが楽になった。
昨日のことを捨てられるようになった。

今は。

生きることが、楽しい。

 

2014年3月10日月曜日

手を伸ばして


その扉は、戦後そこが居留地だった頃に建てられたもので。
だからもうずたぼろに傷ついており。
でも私は、この扉がひどく好きなのだった。

自分が性犯罪被害者になってみて。
それまで素通りしていたものたちに、いちいち立ち止まるようになった。
たかが扉、たかが窓、たかが人。
でもそのたかがの後には必ず、されど、が続く。

当たり前のものなど、どこにもないのだと。
何もかもが唯一無二の、尊い代物なのだと。
私は被害に遭って、それまでの日常を一切合財失ってみて初めて
体で実感した。
それまで想像はしても、それはあくまで想像であり、
実感では、なかった。

でもじゃぁ、実感すればいいのか、といえば違う。
実感しないで済むなら、それに越したことはない、と、本気で思う。
そんなもの、体験しなくても生きていけるなら、それに越したことはない、と。
だからせめて。

実感せず過ぎてきてしまったものへ、だから手を伸ばしてほしいと思う。
想像力を使って、精一杯手を伸ばしてほしいと思う。
それが決して「実感」にはなりえないことを承知の上で、それでも
想像をめぐらして、想像力をめいいっぱい働かせて、
あなたの隣人に、傷む隣人に、手を伸ばしてほしい、と思う。

それが、
わたしたち、生きている者に、できる、こと。
生きて、共にあるからこそ、大切にしたい、こと。

2014年3月7日金曜日

どうってことのない、


どうってことのない風景が好きだ。
どうってことのない、どこにでもありそうな風景が。
どこにでもありそうなのに、そこにしかない。
それが唯一の風景、という、いとおしさが沸いてくる。

そんな風景は、ひとりで出会うのがいい。
心がどこまでも、ひとりでいるときが、いい。
もし隣に誰かが実際にいたとしても
心はひとり、飄々と風に吹かれているときが、いい。

たとえば。
ぶらり伸びる電線を見上げ、あの電線はどこに続いているのかしらん、
なんてことを
ぼんやり思い巡らす。
もちろんそれに答えなんて全く必要はなく、
ただぼんやり、思い巡らす、そのことが、いい。

電線がどこにつながっていようと、それは問題じゃぁなく。
どこかに繋がっているのだろう、どこかへ何かを伝えるのだろう、
そのことをあれやこれや思い巡らして、
ひとりこっそり、ほっくりする。
そんな時間が、私は好きだ。


2014年3月5日水曜日

当たり前なんて、ない



当たり前

って何だろう、っていつも思う。
当たり前のこと、ってよくひとはその言葉を使うけれど。
当たり前って、何?

私には当たり前が、ない。
もちろん習慣はあるけれど、それだけのこと。
毎日繰り返すことはあるけれど、
そこには必ず新たな発見があって、
決して昨日と今日のそれがぴったり重なり合うことは、ない。
必ずどこか、ずれて、新しいモノがそこに、ある。

当たり前、と言ってしまえばもう
それまでだけれど。
当たり前がない、というところから毎日を見返すと
とんでもなく夥しい発見が埋もれていて
ぎょっとする。

そして、知るのだ。
今日はいつだって、新しい一日で。
私は常に、新しい瞬間瞬間を、生きているのだ、と。






2014年3月2日日曜日

そんな日も、ある。


越えるのが難しい時がある。
ただ夜を越える、朝を迎えるという
ただそれだけが、酷く難しい時が。

死にたいとは違う、透明人間になりたい、とも違う、
自分をただひたすら消去したいと
そう願ってしまう日がある。

薬を飲んだって、誰かに慰めてもらったって
結局
自分にすべて 返ってくる。
自分が自分を何とかしなきゃ
次は超えられない。

それでも難しい日は

泣けるなら泣いて
泣けないなら歌を歌って

ともかくも越えるんだと、越えた先に何があるかなんてどうでもいいから
今はどうでもいいからともかくも私は越えるんだ、と
言い聞かす

そんな日も ある。