2010年9月21日火曜日

私には、母に抱きつく、という習慣はなかった。幼い頃から或る意味突き放されて育った。母と手を繋いで歩くのはいつも弟で、私ではなかった。
そんな母の手を、或る時まじまじと見つめたことがあった。細いながらも、骨のごつっとした手。そんな母の手にぶらさがるのは、私ではいけないのだ、と、強く思ったことを今でもはっきり覚えている。

娘は今もう十歳になる。けれど、娘はよく私の手を握ってくる。一緒に歩くときは自然、彼女が私の手を握ってきて、そうして歩く。また、家にいるときでも外に出ているときでも、はたと思いついたように私に抱きついてくることがある。私はそのたび、彼女の小さなやわらかな手が、自分の背中をぎゅっと押してくる、その感触を味わう。

私は娘が私の手を握ってきたり、抱きしめてきたりするとき。
正直戸惑いを覚える。どう応えたらいいのか分からなくなる。こんなとき、どう応えたらいいのか、私の記憶にはその答えがないからだ。
抱きしめ返したらいいのか、それともじっとしていたらいいのか。握り返したらいいのかそれとも突き放したらいいのか。分からない。母には突き放された。けれどそれは、私の中で切ない痛みとなって残っている。だから突き放したくない。でも、素直に抱きしめてやれない、そういう自分がいる。
だから、わざとふざけて彼女の脇腹をくすぐったりして、自分の戸惑いを押し隠す。そうでもしないと、私の中の何か邪悪なものが、娘に乗り移ってしまうような、そんな怖さがあるからだ。

それでも娘は私を求める。私はそのたび戸惑う。それでも娘は私を求める。そうして私は自己嫌悪に陥る。
そんなとき、娘の顔が目の前に現れる。そしてにっと私に笑いかける。何考えてるの、といわんばかりの表情で。
もうそうなると、私は何もいえなくなる。私の負けだ、と、もう万歳をして、降参したくなる。

今朝も娘は私にぎゅうと抱きついてきた。私はちょうど出掛けるところで。でも、一分くらいそうして抱き合っていただろうか。
その空間に、耐えられなくなって、私は娘をくすぐった。娘は笑い転げて、いってらっしゃいと手を振ってくれた。でも私は心の中、ごめんね、と言っていた。
私は誤魔化したのだ。娘と同じ分量、いや、それ以上の力で彼女を抱きしめ返せないでいる自分を、誤魔化したのだ。だから、ごめん。娘よ。

この小さな、やわらかな手が、いつか私の手より大きくなって、細く女らしくなって。そうして私を越えてゆくに違いない。
その前にせめて、せめて、あの子より強い力で、あの子を抱き返してやりたい。

私は今日も、そう思う。