人の手というのは、どうしてこんなにも物語を語るのだろう。それがどんな手でも。そう、たとえば荒れ果てた手でも、皺にまみれた手でも、まだ生まれたばかりの手であってさえも。手は顔と同じく、いや、下手すればそれ以上に、多くを語る。
これは娘がまだ保育園の頃の手だった。白い部屋のシリーズを撮影しているとき、ふと撮った一枚だ。
まだ丸みの残る手。丸々として、ふくよかな手だ。でもその手はもうすでに多くものを失ってきた。そのことを私は知っている。
でも手は何も言わない。言わないでただ、あるがままを受け止める。
そうして改めて自分の手を見つめる。私の手は今、ずいぶんもう年を取った。もともと骨太で、血管が浮き出てもいたりして、ごつい手だ。およそ女らしくない。
それでも私はこの手で、様々なものを掴んだり手放したり追いかけたりしてきた。それはこれからもそうなんだろう。
そして何より。
この隣の小さな手が求めたとき、寄り添える手でありたい。そう思う。もちろん、突き放すことだって必要なこともあろう。だからこそ、そっと寄り添える手でありたい。
手は多くを物語る。その物語を私はもっと聴きたい。だから、いつかもっと多くの人の手を撮ってみたい。そう思うのだ。