2010年4月13日火曜日

記憶

一時期、あらゆることを忘れられない時期があった。どんな細かな、些細なことも記憶していて、周囲を困らせた。眠ることも忘れ、ありとあらゆる時刻私は覚醒していた。だから一日が終わらない。昨日になることがないのだ。何処までも今日。一昨日あったことも、まるで今日のことのように甦らせ、私は苦しかった。
あれは一体、何だったんだろうと、今なら思う。

記憶は本当は、ゆっくりと降り積もってゆくものなのだろう。毎日毎日降り積もりながら、樹の年輪のように、育ってゆくものなのだろう。
それがあの時期、狂った。まさに狂ったとしか言いようがない。速度は倍速になり、刻まれる深さもこれでもかというほど克明になり。だから、忘れる、という作業ができなくなった。それは、しんどい以外の何者でもなかった。

忘れる。
それは、人に与えられた、生き延びる術の一つなのだと、思う。それでも、忘れても忘れても、残るものが、ある。
そして私たちはそれらを引きずって生きている。記憶を頼りに、あらゆるところで比較し、嘆き、生きている。
毎日、記憶に対して死んでゆけたら、いいんだろうなと思う。そうしたら、毎日が新しく、新鮮で、私たちは引きずるものもなく、生き生きと進んでゆけるのだろう、と。

この写真は、大きな大きな樹と、地べたとを、多重露光させたものだ。これを地べたと見るのか、それとも樹と見るのか、それは受け取る側の心持によるんだろうと思う。
記憶なんて、そんなものだ。
その受取手の心次第。心持ひとつで、色合いは変わってゆく。そういう、頼りない、代物。でもその頼りない代物に、寄りかかって立っているのが、私たち、だ。

そのことを、忘れたくないと思う。記憶に寄りかかって立っている自分の、足元のとてつもない頼りなさを、忘れたくないと思う。
そしてできることなら、記憶一つ一つに対し、その都度死んでゆけたらいいと思う。そして一瞬一瞬を、新しく生きられたらいい、と。