2014年7月6日日曜日

ひとつの岐路


そろそろ新しいテーマにもとりかかろうと始めている最近。でも、
自分が興味のあるテーマを、ちゃんと世界とリンクさせる、その方法が私にはまだよく分からない。
だから、近しい、そして尊敬できるオトナに相談に乗って頂いた。

その方の言葉はひとつひとつ、私の中にすっと落ちてきて、納得できてしまう。
悔しいけど、そうなのだ。
だから、悔しいのなんてあっという間にどうでもよくなって、どこまで自分が貪欲になれるかに終始する。


私が長いことモノクロで撮っていた理由。それは、私の世界が或る日突然モノクロになったからだ。
よく、それって心理的な理由でしょ、なんて言われて済まされそうになるが、
いや確かに心理的な理由なんだろうけれど、でも、
簡単に言うなよ畜生!と心の中思っている。

世界がモノクロになる、色が失われるということが、どれほど恐ろしいことか、そのひとたちは知らないんだ。或る日突然、それまで普通だったものが失われることの恐ろしさを知らないんだ。だから、簡単にあしらえるし下手すれば鼻で笑うことだってできてしまう。

それに対していちいち目くじら立てていても、しょうがないのが現実。
そんな余力があるなら、そのエネルギーを全部別のことに費やしたいのが私。




この数年、カメラを構えながらも、向こうに色が見えて来ることが増えてきた。
自然、写真もカラーになるのかというと、そうじゃない、モノクロの方が自然すぎて、私はいつもモノクロで写真を作ることを選んでいた。

が。

もともと私がモノクロ写真を選んだ理由が、自分の世界が或る日突然そうなったことを誰かに伝えるためというものならば、
今の私が今の私の世界を伝える手段として用いるものに、
カラー写真が入って来ていいはず、なのだ。

そうか、
そうだ。

私にはまだ、色は眩しい。目が眩む。
でも、それでも淡い色は、確かに見えている。

再現してみようと思う。少しずつ。
自分の今の世界を。

モノクロにしか見えないならモノクロに、
カラーに少しでも見えたならそのように。

やってみよう。