生まれたての娘の手は、本当に小さくて。私の小指を握るのが精一杯なほどに小さくて。私はあの頃、娘の手を握るのが怖かった。潰してしまいそうな気がして、それが怖くて、なかなか手を握ることができなかった。
少し大きくなって、彼女の手がそれなりに大きさをもってきた頃。私たちはそんなに手を握り合う親娘ではなかった気がする。保育園に行く道程も、自転車で通っていたせいかもしれない。手を握り合うことは、少なかった。それに、私にはまだ怖かった。彼女のぷわぷわとした肉付きのよい手が私のごつい手に触れると、なんだかそれだけで汚してしまいそうな気がして、それが怖かった。
この写真の手を撮る頃。彼女の手はだいぶ大きくなってきて。しぶとくもなってきて。彼女は私が放っておくと、勝手に手を握ってくるようになった。手を握ることに慣れていない母はだから、そのたびどきっとした。
撮りながら、思ったことを覚えている。あぁ、ずいぶんしぶとくなったんだな、と。この手もずいぶん、使いこなされてきているのだな、と。私の手がどんなに汚れていようと、それを跳ね返すだけの力を、持ち始めているのだな、と。そう思ったことを、覚えている。
今彼女の手は、ずいぶんと大きくなった。いつもしっとりと濡れていて、だから私は手を握られると、その温度に戸惑ったりする。照れたりする。もちろんそんなこと口に出すわけじゃぁないから、娘は逆に「ママは私の手、握りたくないっていうの!」と怒り出したりするわけなのだが。
手や足は、人の、年輪なのだと思う。
ごつい私の手のそばで、やわらかいかわいらしい娘の手が蠢く。それに気づくたび、思う。そうだ、おまえは何処までもいけばいい、そうして必要なとき、振り向けばいい、私はここに在るから。
今日もまた、一歩、おまえは進んでいくといい。飛び跳ねて、時に躓いて、泥んこになって、そうしていけばいい。
大丈夫、おまえの後ろには私が在る。私の手は、いつでもここに、在る。