娘がまだ保育園の年長さんだった頃。夏休みのはじめに、ひとつの鉢を持って帰ってきた。朝顔の、鉢植えだった。
その観察日記をつけなさい、というのが、夏休みの課題、だった。
大きな大きな、赤紫色の朝顔が咲いた。まっすぐに天を向いて咲く、朝顔だった。ひとふきの風で撓んでしまうほど脆い、朝顔の花びらだった。それでも、それはこれでもかというほど手を広げ、思い切り咲くのだった。
ある朝、それが萎れて。
娘は、ぼろり、涙を零した。
あぁ、終わっちゃった。と、そう言った。
だから言った。いや、終わりじゃないんだよ。ここからなんだよ。
朝顔は、ここから、種をつけるんだ。種をつけて、それを私たちがまた拾って、植えて。そうして来年また、咲くんだよ。そうやって連綿と、続いてゆくんだよ。それが命なんだ。
娘は不思議そうな顔をして、指を伸ばす。萎れた朝顔に、そっと触れる。
種になるんだ。
そう。
また生き返るんだ。
うーん、生き返る、のとも、ちょっと違う。命が繋がってゆくの。
ふぅん。
受け継がれてゆく命が、そこに在った。
やがて花殻も落ち、そこに種が現れた。膨らんで膨らんで、ぱん、と或る日割れた。娘は神妙な顔つきで、その種を大事に拾った。
その種は、じじばばの家の庭で、今も受け継がれている。赤紫色の朝顔。ひとつの、命。