2014年8月31日日曜日

表現すること、私にとって。

たとえば毎日ご飯を食べたり寝たりするのと同じレベルで、何かしら自己表現をしていないと「生きている実感」が得られない、もしくは「生きていることが苦しい」状況に陥ってしまう人間は確かにいるのです。トイレに行くように水を飲むように、表現し続けていないと生きていけない人間が。私のように。
どうしてそこまでして写真やるの、とかどうしてそこまでして言葉を綴るの、とよく言われます。その度私は答えに窮してしまう。何故ならそうせずにはいられないところで私は生きているからです。私のような人間はそうせずにはもう、ここにいられないのです。いることさえが罪悪になってしまうから。
きっと私はずっと長いこと、「私はここにいるよ、私はここにいるよ」と声を上げ続けてたんだと思います。そうしないともう、そこに在ることさえできなかったから。あれから二十年近くを経て、今漸く、聞き耳を立てる術を覚えました。それでも自己表現せずに一瞬たりとも存在していることはできません。
私の大きな転機は被害者になったことで訪れましたが、幼い頃から私にはそういう傾向がありました。というより、そうしか生きてこれなかった。愛されることが当たり前でない環境で、それでも愛されたい愛してと声を出し続けることはそのまま、表現し続けることで。そうしか生きてこれなかっただけです。
だから。私にとって表現することは、呼吸をするように至極当たり前な行為なのです。それ以外の何者でもない。当たり前すぎるから、それを改めて問われると戸惑ってしまう。そうかそれが当たり前じゃないのが世界なのか、と知る。そういうとき、ああひとりだなぁ、としみじみ思うことがあります。
ひとりだからといって悲しかったり寂しかったりする時期はもう、過ぎました。今は、よかった、と思うことが多いです。このひとにとって私の当たり前が当たり前じゃなくてよかった、と。ほっとします。安心します。当たり前に愛してくれる人があなたのそばにはひとりでもいたんだねと知ることができて。
条件をクリアしなければ愛してもらえないと、愛されるためには条件が要るのだと、生まれた時からマイナスだった私は知っていました。たとえば小さい頃なら勉強ができること、いい絵を描くこと、みんなより抜きんでていること、なんでも器用にこなすこと。そうやって私は愛してもらってきた。ずっと。
被害者になってこの世界に存在していることがとてつもない苦痛以外の何者でもなくなったとき。私はこの世界に何とか留まるために表現の仕方をがらり変えました。それまでは誰かの為、愛される為にしていたことを、自分の為だけに。がらり転換しました。そうしなければ私はもう、私を許せなかった。
だから私の写真は、まず何より、私の為に在ったんだと思います。私が世界に留まる為に。私が私という存在を赦す為に。そうして二十年。少しずつ少しずつ変化していこうとしています。でも。軸は変わらない。私はやっぱり根本のところで、自分がこの世界に存在する為、ただ生きる為に、表現するのです。