2014年9月5日金曜日

引き受けられる荷物が


私は二十歳になる直前、泣いた。大泣きした。わんわん泣いた。生まれて初めて自分から声を上げてひとり、泣いた。
理由は簡単で、二十歳になる、と思った瞬間、どわっと後悔が押し寄せたからだ。
十代らしいこと何一つやっていないのに、私はもう二十歳になるのか。
そう思ったら、泣くしかなかった。

だから、三十になる時には、せめて泣かないで済むように生きようと決めた。
そうして二十代を生き始めたつもりだった。なのに。
私は性犯罪被害に遭ってしまった。遭ってからの日々は地獄だった。
針山の上、のたうち回るような痛みしか、生きていて感じられなかった。
だから、いつだって死んでやると思ってた。

そうして三十になった。
なんだか呆然と、三十になってしまった。
でも、泣かなかった。

三十も後半になって、何となく、こんなもんかな、と思えるようになってきた。
こんなもん、というのは、年齢のことだ。
それまで、年齢と自分の生とがどうやっても重なり合わず、私は苦しかった。
でも。
少しずつ少しずつ、その差異が、少なくなってきた、そんな感じがあった。

四十になって。
ほっとした。
ああ、四十だ、と思った。はじめて、年をとるのが嬉しかった。
そうか、私は四十か、四十になるのか、四十まで無事生きたか!
そう思ったら、なんだかとっても嬉しかった。

人生、辻褄が合うようにできてるもんだ、と、帳尻が合うようにできてるもんだ、と、
私の二倍、この世に生きて在る友人が言っていたことを思い出す。
それを最初に聴いた時は、ふざけんな冗談じゃないよ、と思っていた。何が辻褄合うように、だ。何が帳尻合うように、だよ。被害者になって帳尻も辻褄もへったくれもないさ!
なーんて、
私は思っていたのだ、その頃。
でも。

四十を数えて。越えてみて。
なるほど、と思えるようになった。
自分が引き受けられる荷物が、しっかり自分の肩に乗っている。
不思議と、自分が引き受けられるぎりぎりの、限界の量、しか、乗っていない。
なるほど、これが帳尻か、辻褄か。
もちろん、この先まだまだ何かしらあるんだろうけれど。何があっても不思議はないけれど。

でも。

何とかなる。きっと、何とかなるんだ。

今は、そう思う。