2018年7月31日火曜日
2018年2月23日金曜日
呟き/今日という日に
昔、まだ自分の傷が生々しかった頃。性犯罪被害者の数を一人でも減らしたいと真剣に思い行動していた頃があった。とにかく一人でもいい、自分のような目に遭う人を減らしたい、と。
その頃はだから、性犯罪被害者として声を上げられる者がまず行動すればいいと思っていた。たとえば自分。自分は当初から性犯罪被害者だということを明らかにしていたから、そういう自分がまず行動すればいい、と。
たとえば声を聴かせてという相談電話窓口を設けた時だってそうだ。自分のような孤独に陥るひとを少しでも減らしたいという気持ちがあった。被害に遭って自分はひとりぼっちだとひたすら孤独に向かった自分を思い出しては、そういう孤独に陥らずに済むならそれに越したことはない、と、その為に自分にできることは何だろう、と、そういう気持ちがあった。
それを、性犯罪被害者の為に私が行動している、と受け止めた人は多いし、私自身最初はそうなんじゃないかと思っていた。
でも。
いつの頃からか、違うな、と思うようになった。私は自分の為に行動しているだけで、他の誰の為でもないな、と。気づいた。気づかされた。
誰かの為にだけ行動できるほど、私は偉くもないし強くもない。それだけを動力にして行動し続けることができるほど、タフでも、ない。
私は結局のところ、私がこうしたいからする、というところで動いているのだな、と。そのことをつくづく思い知らされた。たとえば悲鳴を上げている誰かに気づいたとして、駆け付けたとして、それも私がそうしたいからした、だけであって、誰かの為、ではない。私がしたいからした、だけなのだ。
この間、あなたは志半ばで諦めるのか、と罵倒された。
正直、言われても、何のことだかちっとも分からなかった。何を志半ばと言っているんだろうこの人は、と、思った。しばらく考えた。考えなければ分からなかった。
ああそうか、この人は私が、被害者の為にこれまで行動してきた人間なのだと捉えているのだなと気づくのに、しばらくかかった。
申し訳ないが。前述したように、私は被害者の為だけに行動して来れるような高尚な人間でも何でもない。ただただ、自分がこうしたいからする、と、それだけでこれまで生きて来た人間なのだ。
あなたの期待に沿えず、申し訳ない。
立て続けに罵倒を受けて、考えた。
この人は私が期待に添わないことをこんなにも怒っているのだな、傷ついてさえいるのだな、と気づいて、心底申し訳なくなった。
でも。
今更己に嘘をついても何も始まらない。私は、そういう位置にはいない人間なのだ。
被害者の為にとか、加害者の為にとか、正直、私にとってあまり重要では、ない。それよりも何よりも私の原動力になっているのは、私がどうしたいか、だ。私がどうしたいか、こうしたい、だからこうする、と、もうただただ、それだけ、なのだ。
もちろん、そこに至るまでに、こうすれば被害者が一人でも減るのではないか、とか、加害者が再犯を犯す度合いを少しでも減らせるんじゃないかとか、いろいろ動機はある。理由はある。こうしたら一人でも傷つく人が減るんじゃないか、とか。そういったものは、いろいろある。山ほど、ある。
でも。
最後の最後、私が行動するか否かを決めるのは、私がどうしたいか、なのだ。他人にとってどうとかそんなの正直問題にならない。ただただ、私がどうしたいか。そこなのだ。
それを身勝手と笑うひとは笑えばいい。おこがましいと罵倒する人はすれば、いい。昔はそういったことに怯えていたけれど、私ももういい歳だ。怯えて逃げても後悔するだけの自分がいることをもう分かっている。
私は私が後悔する生き方をしたくは、ない。私は私が納得いくように生きたい。私が私の人生を引き受けられなくて、一体誰が肩代わりしてくれるというのか。誰もしてくれやしない。私が私の人生を背負うのだから。
今、加害者更生に加わっているのも、私がそうしたいから、だ。そこに辿り着くまでにいろんな思いがあったことは確かにそうだ。被害者を減らしたいとか傷つくひとを一人でも抑えたいだとか、性犯罪は再犯率が高いからとか、なんだとか。私を突き動かしたものたちを数えだしたらきりがない。でも。
最後の最後、私が行動に移る時。
それはただただ、私がこうしたいから、だ。他人の為でも何の為でも、ない。私の為、だ。
私は私に呆れたくない。私は私を諦めたくもない。私は私を貫きたい。私は私として生きたい。私が私であるために今ここで何を私はするのか。
私はそれを自分の軸にしている。
昔はさておき、少なくとも今の私は、そうとしかいいようがない。
だから。
そんな私を見て、あなたは敵だ、と言うひとは言えばいい。あなたは身勝手だ、と言うひとは言えばいい。志半ばで諦めるのかと罵倒するならすればいい。
構わない。
そうだね、と私は受け止めるよ。
私は自分の存在が、存在しているだけで誰かを傷つけ得ると知っている。悲しいかな、そんなもんだ。私が存在しているただそれだけで傷つく人は、結構いる。不愉快に思う人も結構いる。
申し訳ないと思う。
でも。
私はそれ以上に、生きたい。私は私を貫いて生きたい。申し訳ない以上に私はそう生きたい。そう、生きる。
そう、決めたのだ。
その頃はだから、性犯罪被害者として声を上げられる者がまず行動すればいいと思っていた。たとえば自分。自分は当初から性犯罪被害者だということを明らかにしていたから、そういう自分がまず行動すればいい、と。
たとえば声を聴かせてという相談電話窓口を設けた時だってそうだ。自分のような孤独に陥るひとを少しでも減らしたいという気持ちがあった。被害に遭って自分はひとりぼっちだとひたすら孤独に向かった自分を思い出しては、そういう孤独に陥らずに済むならそれに越したことはない、と、その為に自分にできることは何だろう、と、そういう気持ちがあった。
それを、性犯罪被害者の為に私が行動している、と受け止めた人は多いし、私自身最初はそうなんじゃないかと思っていた。
でも。
いつの頃からか、違うな、と思うようになった。私は自分の為に行動しているだけで、他の誰の為でもないな、と。気づいた。気づかされた。
誰かの為にだけ行動できるほど、私は偉くもないし強くもない。それだけを動力にして行動し続けることができるほど、タフでも、ない。
私は結局のところ、私がこうしたいからする、というところで動いているのだな、と。そのことをつくづく思い知らされた。たとえば悲鳴を上げている誰かに気づいたとして、駆け付けたとして、それも私がそうしたいからした、だけであって、誰かの為、ではない。私がしたいからした、だけなのだ。
この間、あなたは志半ばで諦めるのか、と罵倒された。
正直、言われても、何のことだかちっとも分からなかった。何を志半ばと言っているんだろうこの人は、と、思った。しばらく考えた。考えなければ分からなかった。
ああそうか、この人は私が、被害者の為にこれまで行動してきた人間なのだと捉えているのだなと気づくのに、しばらくかかった。
申し訳ないが。前述したように、私は被害者の為だけに行動して来れるような高尚な人間でも何でもない。ただただ、自分がこうしたいからする、と、それだけでこれまで生きて来た人間なのだ。
あなたの期待に沿えず、申し訳ない。
立て続けに罵倒を受けて、考えた。
この人は私が期待に添わないことをこんなにも怒っているのだな、傷ついてさえいるのだな、と気づいて、心底申し訳なくなった。
でも。
今更己に嘘をついても何も始まらない。私は、そういう位置にはいない人間なのだ。
被害者の為にとか、加害者の為にとか、正直、私にとってあまり重要では、ない。それよりも何よりも私の原動力になっているのは、私がどうしたいか、だ。私がどうしたいか、こうしたい、だからこうする、と、もうただただ、それだけ、なのだ。
もちろん、そこに至るまでに、こうすれば被害者が一人でも減るのではないか、とか、加害者が再犯を犯す度合いを少しでも減らせるんじゃないかとか、いろいろ動機はある。理由はある。こうしたら一人でも傷つく人が減るんじゃないか、とか。そういったものは、いろいろある。山ほど、ある。
でも。
最後の最後、私が行動するか否かを決めるのは、私がどうしたいか、なのだ。他人にとってどうとかそんなの正直問題にならない。ただただ、私がどうしたいか。そこなのだ。
それを身勝手と笑うひとは笑えばいい。おこがましいと罵倒する人はすれば、いい。昔はそういったことに怯えていたけれど、私ももういい歳だ。怯えて逃げても後悔するだけの自分がいることをもう分かっている。
私は私が後悔する生き方をしたくは、ない。私は私が納得いくように生きたい。私が私の人生を引き受けられなくて、一体誰が肩代わりしてくれるというのか。誰もしてくれやしない。私が私の人生を背負うのだから。
今、加害者更生に加わっているのも、私がそうしたいから、だ。そこに辿り着くまでにいろんな思いがあったことは確かにそうだ。被害者を減らしたいとか傷つくひとを一人でも抑えたいだとか、性犯罪は再犯率が高いからとか、なんだとか。私を突き動かしたものたちを数えだしたらきりがない。でも。
最後の最後、私が行動に移る時。
それはただただ、私がこうしたいから、だ。他人の為でも何の為でも、ない。私の為、だ。
私は私に呆れたくない。私は私を諦めたくもない。私は私を貫きたい。私は私として生きたい。私が私であるために今ここで何を私はするのか。
私はそれを自分の軸にしている。
昔はさておき、少なくとも今の私は、そうとしかいいようがない。
だから。
そんな私を見て、あなたは敵だ、と言うひとは言えばいい。あなたは身勝手だ、と言うひとは言えばいい。志半ばで諦めるのかと罵倒するならすればいい。
構わない。
そうだね、と私は受け止めるよ。
私は自分の存在が、存在しているだけで誰かを傷つけ得ると知っている。悲しいかな、そんなもんだ。私が存在しているただそれだけで傷つく人は、結構いる。不愉快に思う人も結構いる。
申し訳ないと思う。
でも。
私はそれ以上に、生きたい。私は私を貫いて生きたい。申し訳ない以上に私はそう生きたい。そう、生きる。
そう、決めたのだ。
2017年2月18日土曜日
春一番の吹いた日に記す。
最近は、淡々と写真と向き合っています。
踊り手さんとカメラを挟んで向き合ったり、二十代の若い友人と向き合ったり、ひとりでてこてこ歩きながらカメラを構えたり。
写真を始めた頃の、切羽詰まった感じはきっと、今はだいぶ薄れたと思います。
そうやって、写真は、私にとってもはや自分の体の一部になっていっているんだと思います。
2016年10月30日日曜日
今年が書簡集での最後の展示になります
今日、無事に書簡集に搬入してまいりました。
前期「御伽話」、始まりました。
そして。
突然のお知らせですが。
書簡集での展示は、今年が最後になることになりました。
十数年、あっという間だった気がします。
ここでいろんな出会いを得ました。
別れもありました。
笑ったり語り合ったり、ほんとうにいろんな思い出があります。
来年ここにはもういないんだな、と思うと、今は正直、寂しさが先立ちます。
でも、はじまりがあれば、必ず終わりもあるというもの。
今年も、書簡集に常に居ることは、できませんが、
作品を通して、ひとりでも多くのひとたちと出会えるといいなぁと思っています。
なお、しばらく、個展等の予定はありません。
前期、11月26日まで。
後期、11月27日から12月30日まで。
よかったら、作品に会いに行ってやってください。
前期「御伽話」、始まりました。
そして。
突然のお知らせですが。
書簡集での展示は、今年が最後になることになりました。
十数年、あっという間だった気がします。
ここでいろんな出会いを得ました。
別れもありました。
笑ったり語り合ったり、ほんとうにいろんな思い出があります。
来年ここにはもういないんだな、と思うと、今は正直、寂しさが先立ちます。
でも、はじまりがあれば、必ず終わりもあるというもの。
今年も、書簡集に常に居ることは、できませんが、
作品を通して、ひとりでも多くのひとたちと出会えるといいなぁと思っています。
なお、しばらく、個展等の予定はありません。
前期、11月26日まで。
後期、11月27日から12月30日まで。
よかったら、作品に会いに行ってやってください。
2016年10月6日木曜日
書簡集で今年も展示します
気づいたら今年ももう10月。月日が経つのはなんて早いんでしょう。
そうして今月末から、今年も書簡集での展示をすることになりました。
前期10月30日~11月26日「御伽話」
後期11月27日~12月30日「風の匂い」
です。
前期と後期、いつものとおり全く異なるそれぞれの展示になります。
書簡集のおいしい珈琲やカレーを食べながら、眺めていただけたら嬉しいです。
今年のDMは、特別に、スタジオカタチの玉川祐治さんが作ってくださいました。
祐治さんとは知り合ってからもう一体何年が経つんでしょう?
私がインターネットを始めて間もない頃からの知り合いです。
写真を通じて、絵の話、写真の話、デザインの話、その他もろもろ、いつも相談に乗ってもらっています。そんな祐治さんが作ってくださったDMなんです。
毎年自分で作っているDMとは全然仕上がりが違います!
細かなフォントの選択、画のトリミング、配置の仕方、あらゆるところに「プロ」としてのお仕事が光っています。DMが届いたら、ぜひ、それらをじーっくり見つめてください。
さぁてここから年末まで、一気に駆け抜けます。
みなさんも、風邪なんて引いている暇はありません!全速力で一緒に駆け抜けませう。
私は常に会場にいるわけではありません。むしろあんまりいません。
なので、私をとっつかまえたいという場合は、ぜひ事前にご連絡ください。
10月末から12月末まで。
どうぞよろしくお願いいたします。
2015年9月20日日曜日
書簡集展示のお知らせ
今年も書簡集での展示の季節になりました。
今年もいつものように展示をやれるということ、とても嬉しく思います。
今年は・・・悩みました。
わたくしごとでいろいろ躓くことが立て続けにあって、こんな状況で展示ができるのかなぁと。
そんな時、ひとりの友が、背中を押してくれました。
感謝、です。
そんなわけで、今年もやります。
「二十代の群像」シリーズから、「Kの旋律」「孤獅唄」、展示します。
「Kの旋律」、前期はカラー、
「孤獅唄」、後期はモノクロ、という構成になります。
展示期間中、私は土日は基本、書簡集に行けません。
平日のみになります。
本当に申し訳なく、ごめんなさい、です。
平日、お時間作れる方いらっしゃいましたら、会場でお会いできると思います。
その時はお声かけてください。
なお、DM、欲しいなーと仰って下さる方いらっしゃいましたら
遠慮なくメッセージください。
10月初めにはお届けできると思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
今年もいつものように展示をやれるということ、とても嬉しく思います。
今年は・・・悩みました。
わたくしごとでいろいろ躓くことが立て続けにあって、こんな状況で展示ができるのかなぁと。
そんな時、ひとりの友が、背中を押してくれました。
感謝、です。
そんなわけで、今年もやります。
「二十代の群像」シリーズから、「Kの旋律」「孤獅唄」、展示します。
「Kの旋律」、前期はカラー、
「孤獅唄」、後期はモノクロ、という構成になります。
展示期間中、私は土日は基本、書簡集に行けません。
平日のみになります。
本当に申し訳なく、ごめんなさい、です。
平日、お時間作れる方いらっしゃいましたら、会場でお会いできると思います。
その時はお声かけてください。
なお、DM、欲しいなーと仰って下さる方いらっしゃいましたら
遠慮なくメッセージください。
10月初めにはお届けできると思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
2015年7月21日火曜日
handmade photo book "SAWORI"
I'm selling a handmade photo book at my website now.
That's the self portrait collection.
I'm hoping to want a lot of people to see that.
That's the self portrait collection.
I'm hoping to want a lot of people to see that.
photo by SAORI NINOMIYA,
text by RUI HAYASAKA,
English translation by TAKEKO FUJISAWA
text by RUI HAYASAKA,
English translation by TAKEKO FUJISAWA
edition 30.
Size: 180 mm x 180 mm x 14 mm.
Page 112(Black and white pictures)
Size: 180 mm x 180 mm x 14 mm.
Page 112(Black and white pictures)
book 5500JPY+Postage 1800JPY
そう、どれもこれも、日常の一断面に過ぎない。だけれども、そのどれもが唯一無二の瞬間瞬間であることを、私は強く感じている。これまで見過ごしていたものたちが光を放ってくっきりと輪郭をもって輝いて見えてくるということを、私は今、まざまざと体験している。
そして思うのは。
当たり前なんてものはこの世界にただのひとつもないのだ、と。どんなことも唯一無二の、愛おしい愛おしいものたちなのだ、ということ。
たとえ、過去にどんな被害に遭って穢れていようと、どんなに病が深く私を穿っていようと、私という代物もまた、この世界で唯一無二なのだ、と。
そして思うのは。
当たり前なんてものはこの世界にただのひとつもないのだ、と。どんなことも唯一無二の、愛おしい愛おしいものたちなのだ、ということ。
たとえ、過去にどんな被害に遭って穢れていようと、どんなに病が深く私を穿っていようと、私という代物もまた、この世界で唯一無二なのだ、と。
私は日常を愛す。当たり前とされる、でも何一つ当たり前のことなんてない、そんな日常を。
私は、愛す。
私は、愛す。
Those images are just a preview of my daily life. But I strongly feel that each one of those pictures are an unique moment.
Those things that I didn't pay attention untill a certain period of my lifetime are highligthed, sharpened and brightened.
There's nothing that is "normal". None. Everything is unique and lovable.
Even though I have been soiled by any kind of assault, even if I am drilled by any kind of illness,
I myself am still unique and irreplacable.
Those things that I didn't pay attention untill a certain period of my lifetime are highligthed, sharpened and brightened.
There's nothing that is "normal". None. Everything is unique and lovable.
Even though I have been soiled by any kind of assault, even if I am drilled by any kind of illness,
I myself am still unique and irreplacable.
I love my daily life. A daily life that is said to be normal but nothing is normal.
I love it.
I love it.
-----(from photo book "SAWORI")
This is my self portrait collection. I'd like to report these pictures and texts to you.
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