2011年4月15日金曜日

蝶番

身近な人に言われた。
君はブログででさえも自分の苦しみや辛さを押し隠しているんだね。

確かにそうかもしれない。
私は、そういうことについて書くことが苦手だ。

たとえば。
性犯罪被害に遭った友の強烈な悪夢の話やフラッシュバックの話を聴いた翌朝、私はたいてい起きた途端吐いてしまう。彼女の夢がまるで自分に乗り移ったかのように、夜中悪夢に魘され、へとへとになって、空っぽの胃から胃液を必死に吐き出す。
たとえば。
再体験の話を繰り返し耳にすれば、ようやっと治まっていたはずの症状がぶりかえし、自分まで再体験に魘され苦しむ。
たとえば。

挙げだすときりがない。

でもそういう私を知っているのはごくごく一部の人間だけだ。本当に近しい人間だけ。

うまくいえないが。
自分の苦しみや辛さを書くくらいなら、彼女や彼から伝えられた辛さや苦しみについて記したいと思う。
自分の傷みをずらずら書くくらいなら、彼女や彼から伝わってきた涙の色をしかと記して誰かに伝えたいと思う。

「だから誤解されるんだよ。君はまるで病気を克服して、事件のことも克服して、元気にやってるって受け取られちゃうんだよ」
友が苦笑する。
私も、苦笑する。

でも。
一人でいい。たった一人でいい。この世でたった一人、私のそうした苦しみや傷みを知っていてくれる人がいるならば。
私はもうそれで、充分なんだ。

だから私は言ってみれば蝶番だ。
彼や彼女の声を、あちら側に伝えるために翻訳し記す。そしてまた、あちら側からの声が届けば、それを翻訳し記して、彼女や彼らに届ける。
それが私の、役目なんじゃなかろうか、と。

ふと振り返ると、娘が実に穏やかないい顔をして立っている。
思わずシャッターを切った。秋の早朝の、一景。