2015年2月17日火曜日

口の中の鉄の味


 そこはまるで、映画の中でよく見る宇宙船の廊下のようなのだ。そんな廊下を私は歩いている。私の前にも私の後ろにも、何人かのヒトガタが在り、私と同じように前方の扉へ向かって動いている。そう、歩いている、のだと思う。歩いているのだとは思うが、それは、ぼわん、ぼわん、と、いつもの慣れ親しんだ規則正しい重力の方程式ではなく、云ってみれば投槍で中途半端なそれがかかっているかのようにぼわん、ぼわん、と、一足ごとに浮遊する。そうやって私たちは前方の扉へと進んでゆく。
 気がつけば開いているその扉を私たちはくぐる。と、そこには円形の部屋がひろがっており、スクリーンの代わりに分厚いガラスで作られた水槽が目の前にあった。円弧を描いて前方に横たわる水槽を正面にして広がる階段状の椅子にヒトガタたちはめいめい座ってゆく。私も左端の、前から三段目の場所に座る。
 なんとなしに振り向くと、二段後ろの斜め方向に、父がいた。そう、父だ。さっきまではいなかったはずなのに、そこには父がいた。私の父が。
 私が父だとそのヒトガタを認識したその瞬間、弟の声がした。「姉貴、逃げろ」。そしてその声とほぼ同時に、父であるヒトガタを下方から突きぬくかのように、深紅の水が噴き上がった。
 父が、父が死ぬ。死んでゆく。目の前で父のカラダが深紅の水で真っ二つになってゆく。だめだ、止めなくちゃだめだ、水を止めなくては、止めなければ父は死んでしまう。思うのに、そう思うのに、私の足は動かず、その様子を私はただ凝視するばかり。そう、指一本さえ動かせず呆然とただ凝視しているのだ、私は。
 そうしている間に父であるヒトガタの、今度は心臓部分から、同じく深紅の水が噴出し始める。すさまじい勢いで。部屋は見る間に水浸しになってゆく。あぁ、もうだめだ、父は、父は。その時、周囲で群れていたヒトガタたちがいっせいにざわめき始めている。
 「姉貴、逃げろ、逃げるんだ」再び弟の声がした。姿はない。声だけが私の耳にうゎんうわんと響く。「早く逃げるんだ」
 と、その時、弟の声の向こう側から、まるでずんずんと近寄ってくる軍隊の足音かのように束の声が響いてきた。
   「あいつが殺した」
    「あいつが殺した」
     「あいつが殺したんだ」
       「犯罪者を生かしてはおけない」
      「死ね」
     「死ね」
   「死ね」
 私は、逃げ出した。まるで吸盤のように地に吸い付いた足を千切れてもいいと無理矢理引っ張り上げ、そして走った。
 いや、走ろうとした。が、私はやはり、中途半端な重力のおかげで、まるで蚤のようにぴょーんぴょーんとはねているだけに過ぎず、それでも、私は必死になって逃げ出した。
   「殺してやる」
    「殺してやる」
     「罪人を生かしてはおけない」
      「殺してやる」
     「殺してやる」
    「おまえを殺す」
 ぴょーんぴょーんと私ははねて逃げる。声の群れが後方から押し寄せてくる。私は逃げる。声の群れも私と同じく蚤のようにぴょんぴょんはねる。追い掛けてくる。気付けば周囲の景色は山間から谷間へ、そして伸びる線路へと姿を変える。声の群れはそれでも木霊しながら私を追い掛けて来る。私は逃げる。声が追い掛けてくる。
 私は。
 私は殺してなどいなかった。父を殺してなんかいない。そんなこと一目瞭然だった。私は父を殺せる位置になどそのときいなかった。私じゃない。私じゃない誰か他の誰かが私の父を殺したんだ、私じゃない。
 私は何度も何度も、何度も何度も心の中でそう叫んだ。追い掛けてくる声に向かって叫んだ。だが、声はもはや私の叫びなど聞く余地など持たず、怒涛のように押し寄せてくるばかりだった。私は殺してない。殺してなんかない。でもそんなこと、もはやどうでもいいのだ、こいつらには。私がやったやらない、ではなく、この出来事を滞りなく片付けるためには事を起こした「犯人」が必要であり、その犯人として吊し上げる誰かが必要であり、誰かしら何かしらの対象を必要としていた彼らの目にたまたま、私が映ってしまったというだけで。それでもう充分なんだ、私を追い掛け、吊し上げ、抹殺する、それで全て丸く収まる。
 説明している余地などない、正論をいくらひけらかしてみせたって殺されたらそれで終わりになってしまう、いやだ、死にたくない、私はもう逃げるしかないのだ。逃げて逃げて逃げおおせるしか。私は逃げた。ひたすら逃げた。止まるわけにはいかなかった。止まったらそこで彼らに捕まる。捕まったが最後、私は殺されるだけだ。殺されたくなんかない、私は犯人なんかじゃない、やってもいない罪で裁かれるなんて真っ平ご免だ、逃げろ、逃げろ、逃げて逃げて逃げまくるんだ。
 ぴょーんぴょーんと私は蚤になって飛びはね逃げ続け、ぴょーんぴょぴょーんと、声の群れは何処までも私を追い掛け続け。ぴょーんぴょーん、ぴょーんぴょぴょーん…。
 そうして私は山を抜け谷を抜け線路沿いに逃げ続け、五つ目のトンネルを抜けるとそこにコンクリ打ちっぱなしのホームを見つけた。私はそこによじのぼる。そういう時に限って何故か跳ね上がることができない。必死に思いで自分の身長以上に高いホームによじのぼろうとする。
 と、誰かが私に手を差し伸べて来た。「ほら」と云う。あぁ、これで助かるんだ、と私は全身の緊張が落ちてゆくのを感じた。ありがたいと心の底から思いながらその声の主を見上げ、私の心臓は止まる。そこにあった顔は。その顔は。

 夢は必ずそこで終る。そこに在った顔は、その顔は、いくら頭をゆすっても思い出すことは叶わず、けれどそれが私の息の根を一瞬にして止めても不思議ではない顔であったことは確かであり。
 そして私はいつも口の中に溜まった鉄の味にそっくりな何かを重たい嘆息と共に呑み込む。私は殺してなんかいない、私は犯人なんかじゃない。
 そしてもうひとつ、重い重い鉛を呑み込む。

 あぁ今夜も、父が死んでゆくのをただ見ているしかできなかった、と。