2015年1月25日日曜日

猫おばさん


 「ここは捨て猫置場ぢゃない / ここに猫を捨てるな!!」
 玄関のよく見える場所に、手書きの張り紙がセロテープで張りつけてある。セロテープはもう茶色く色づいており、ずいぶん前に張られたものなのだということを見た者に教えてくれる。
 そこは猫おばさんの住む、通称猫屋敷。風が吹くと猫の小便の匂いがぷんと鼻をつく。蒸し暑い夏場ともなればその匂いはたまらない。通りの中央まで漂ってくる。
 ちょっと背伸びして門構えの中を覗き見してみると、長い綱に繋がれた猫がそこかしこに何匹もいる。庭は猫の毛だらけ、あっちこっちに糞が転がり小便の痕がある。梅雨が終わり夏の盛りにもなったら、ここは一体どういう匂いがしてくるのだろうと怖くなる。猫を飼っている私でもそう思うのだから、猫を飼ったことのない人にとってはもう何ともいえないものがあるだろう。
 ひょんなことから、その猫おばさんの声を聞くことになった。つっけんどんな、でも、猫によく似た背中の丸い小さな猫おばさん。

 触るんじゃないよ、とおばさんから突然呼び止められたのは、六月も下旬に近い日、路肩に猫が倒れていた日だった。恐らく人間の車にはねられたのだろう、ざっくりと切れた後ろ足が痛々しい。呼吸もだいぶ乱れている。ふつう、こういう姿を見つけたなら病院に連れてくなり何なりするものだと私はそれまで思っていた。が、猫おばさんは違うのである。触るんじゃないよ、と言う。
 私が言い返すと、じゃぁあんたはその猫を飼うことができるのかい? と言う。いや、もうすでに二匹の猫がいるのだから、そこに更に猫を増やすのはできない相談だ。無理だと答えると、じゃぁ触るな、と言う。
 もしここで死ぬならば、それがその猫の寿命だと猫おばさんは言うのである。その後飼ってやれもしないくせに人の手で寿命を延ばすのは不自然なことだと。猫は死ぬまで自分のエサは自分で獲ってこなければならないのだから、飼うことができないなら手を出すな、と。
 言い返せず、私は結局、倒れた猫をそのままにして家に戻った。いったん家に戻ったものの、気になって娘を抱いてもう一度表へ出てみる。と、猫おばさんが、その猫の頭の方に水とエサをいれた容器を置いているじゃぁないか。
 声をかけると、ふんっ と言う。食べるかどうかは本人の問題だからね、自分で治ろうとする力をちょっと後押ししてやるくらい、どうってことないさ、と。
 それからしばらくの間、猫の頭のすぐそばには、水とエサの入った容器が置いてあった。猫おばさんが毎日置いているんだろうか。
 一週間、十日、二週間、気がつけば猫は、びっこをひきながら歩くようになり、まるでズタボロの雑巾のように汚れていた毛も、ずいぶんきれいになってきた。毛繕いをする余裕が出てきたという証拠なのだろう。
 そうしていつの間にか猫は、何処からか獲ってきたのだろうネズミやらトカゲやらにしゃぶりついている。そういった獲物が獲れないときにはどうも、猫おばさんの家に入り込んで何やら食べさせてもらっているらしい。

 あの時。猫おばさんは、私に、触るな、と言った。
 もし言われていなかったら。私はどうしていただろう。もし病院に連れていっていたとして、その後は? 飼う事ができなくてどうする? 飼い主を探すか? 探しても見つからなかったら猫はどうなる?
 もし捨てることになってしまうのならば、多分拾うことはもちろん触れることさえしない方がいいに決まってる。多分、そう、いや、きっと、認めたくないけれど、私は、もしあの時下手に手を伸ばしてしまっていたら、猫を再び野に放る、要するに捨てざるを得ない状況になっていたに違いない。そして、猫は、一度拾われておきながらその人間の手によって捨てられる。捨てられる気持ちはどんなだろう。そんなことを考えるのはばかげたことか。
 猫おばさんは、下手に手を出さず、ただ、猫が首を伸ばせば届く位置に水とエサを毎日やり続けた。やり続けたとしても、猫自体が自分で治る力がなければ途中で死んでいたことだろう。そう、それが猫の寿命だったのだろう、けれど、あの猫は一生懸命自分の傷を舐め、そこにある水とエサを懸命に食べ、そうして生き延びた。
 生き延びた猫は今、再び、自分の力で自分の食料を得られるだけの力を取り戻している。
 「ほんと、匂いがたまらないんだけどね、もう、どうしようもないのよね、わざわざ夜中にここに来てあの家に猫を捨てていく人がいるんだもの。あの人はほら、猫が好きだから、自分の家に投げ込まれた猫はどうにかして世話しようとしちゃうわけよ。あの人が自分で拾ってきてるんならこっちも文句言えるんだけど、そうじゃないからねぇ、もう、どうしようもないわね、あの人じゃなくてあそこに捨てていく人が何より悪いんだから。ねぇ、あぁもう、臭い臭いっ」。
 猫屋敷の並びに住むおばさんが、そんなことを言っていた。
 足に怪我をした猫がてっこてっこと跳ねながら猫屋敷の庭に入っていく。しばらくすると再び姿を現し、通りを渡って何処かへ出掛ける。彼は今頃何処に住んでいるんだろう。

 赤の他人が捨てていった猫を、自分も捨てるということができずに、気付けば足の踏み場もないほど猫に屋敷の殆どを占領されながら、今日も猫おばさんは猫たちと一緒に暮らしている。
 「ここは捨て猫置場ぢゃない / ここに猫を捨てるな!!」
 玄関の白い張り紙が、なんだか眩しい。