2015年1月16日金曜日

黒パン


 黒パンが好きだ。パンの中で多分、一番好きなのが黒パンで、次がクロワッサンだ。これらとアイスクリームさえあったら、私は他の食べ物がぜーんぶなくなっても一向に構わない。
 この黒パンにまつわる想い出が私にはある。学生時代、卒業論文の締切もあと二ヶ月となったとき、私は突如、パリに飛んだのだった。表立っての理由は「卒論で扱っている作家がパリ出身でパリ中心に活動もしていたから卒論の仕上げをしに実地見聞してくる」ということだったが、本当の理由は、「自分の本当の場所探し」だった。
 その頃の私は、この今いる場所が自分の場所とは思えなかった。小さい頃から私の場所はここじゃない、何処か遠くにある、何処かにきっとある、ここは仮にいさせてもらっているだけで、私の場所じゃないんだ、だからいい子にしてなくちゃいけない、だから言われた事はちゃんとやらなくちゃいけないし愛される子でいなくちゃいけない云々、そう思っていた。
 でも探しても探しても見つからない。もしかしたらと思うたび、やっぱり違うと思い知らされるばかり。もうこの国の中にはないのかもしれないと思いつめ、何故か心に引っかかって仕方が無かった街、パリへと、私は飛んだのである。
 オープンチケットをぎゅうっと握り締め、財布には6万円ぽっきり、着替えは弟のお古のズボンひとつ、他にはパンツとシャツと三枚ずつにセーター一枚。それと常に持ち歩くノート二冊と作家に関する本を一冊、それだけリュックに詰め込んで、海の向こうの街へ。初日以降、宿は自力で探すしかなく、私は財布がさびしいこともあって、橋のたもとで歌を歌って拍手してくれたヒトからご飯をおごってもらったり、大学の構内に入りこんで日本語教えるかわりに今日泊めてくれる、という女子学生を必死に探したりして。今思うとかなり危ないことを当時の私は平気のへっちゃらでやっていた。
 幸か不幸か、ただ観光で来たわけじゃない、私はこの街を知りたいし学びたいことがあるんだ、という日本人の女の子に、あの街はやさしかった。雨が降って、歌を歌ってご飯をおごってもらうことができない日には、もう馴染みになった八百屋のおっちゃんが色あざやかなフルーツを投げてよこしてくれたり、安いからと泊まったボロ宿では、学生は腹が減ってちゃ勉強も身につかないと朝黒パンのサンドウィッチを作って宿主のおばちゃんが私にもたせてくれたりした。この黒パンが最高だった。飲み物がないと口の中がいつまでもパン屑でごわごわしそうなほど歯ごたえがあるのだが、これが、噛み締めれば噛み締めるほどパン生地に混ぜてある木の実やハーブの味がにじみ出てきてうまいのだ。バターかクリームチーズを塗っただけのサンドウィッチだったが、私にはそれは、最高のご馳走だった。
 もちろん作家を辿ってあちこち回り、資料を集めたりインタビューしてみたりいろいろした。でも、思うのだが、私は、彼女(作家のこと)を辿りながら、自分を辿ろうとしていたのかもしれない。彼女を辿る事で自分の輪郭が少しでも掴めたら、見えてきたら、そうしたら自分の立つべき場所もわかるんじゃないか、なんて、少し思っていたのかもしれない。そして、この街が、もしかしたら、本当に自分がいるべき場所なんじゃないかなんて、期待してもいたんだ。
 そんなふうに毎日毎日ひたすら歩いて歩き続けて、パリ市内のほとんどは歩き尽くしたといってもいいくらいに歩いた頃、私はサクレクール寺院のてっぺんに昇った。パリという小さな街をそこから見下ろして。私は。思い知った。
 あぁ、ここでも私は異邦人だ、と。
 私はまだ何もわかってなかった。私というものがどんなふうに形作られ、そもそもどんなふうにしてここまで歩いてきたのか、生きてきたのかを、まだ全然分かってなかった。そんな尻の青さを、私はつくづく感じた。どう足掻いたって私は日本人で、日本で生まれ日本語を喋り、こうやって外国にくれば日本の文化を背負って歩いてる。それなのに私には、語ることのできるものはまだ何もない。問われても自分の国を語る事なんてできやしないし、自分自身を語ることも全然なってない。こんなんで、自分の場所も何もあるもんか、と、私は、悔しいけど、認めざるを得なかった。
 日本に帰ろう
 そう思った。日本に帰って、もう一度出直しだ、と。

 今日、私の大好きな黒パンだけじゃなく、チーズケーキにレース編みを抱えた友達が遠路遥々訪ねてきてくれた。遠路遥々来てくれたというのに彼女は子のミルクの世話までみてくれる。我子も、子育て経験者である彼女のなれた手つきに安心し、にこにこ愛想をふりまいている。まったくどっちがお客様なんだ、と、穴があったら入りたい気分になってしまった。でも。
 彼女のパンの味は、なんだかちょっと、懐かしい味がした。あの、ボロ宿主のでぶっちょおばさんが作ってくれた黒パンみたいにごわごわなんかしてない、さわやかな舌触りのする黒パンなのに、それでも、何故か、懐かしい味がした。