2014年2月28日金曜日

先生の遺言


恩師からDVDが届いた。恩師が北大で講義を行なったものを録画したものだという。
「これを君に、僕の遺言として渡そう」。
そう手紙には記されている。

恩師からの遺言。
そう思うと、生半可な気持ちでは見ることができない。
おかげでまだ、見ることができないままでいる。

先生、先生は、樺太は無いものとされた場所、と言った。
私にとってかつて遭った性犯罪被害が、似通ったものだった。
加害者たちによってたかって「無かった」ものとされてゆくのを、私は当時ただ呆然と見守り見通すことしかできなかった。

先生、先生の樺太と、私の体験した出来事が似ていると感じるのは
私のひとりよがりだろうか。
それだから私は先生の、樺太を知りたいと思うようになったと言ったら
先生は笑うだろうか。

先生。
先生の来た道を、私はすべて知ることなんて、絶対にできやしないってそんなことは分かっているけれど、だからこそ、「今ここ」の先生に、寄り添っていたいと思うんだ。寄り添わせてほしいと思うんだ。
先生、先生は私にとってひとつの憧れなんだよ。
そしてそれはもはや、私のひとつの「日常」なんだ。

ベランダでハーブが咲き始めた。
もう、春はすぐ、そこ。



2014年2月23日日曜日

傷む、痛む、悼む。


恩師からの手紙に、おまえの写真を見にゆくにはちょっとした覚悟が必要だと書かれていた。
お前の写真は痛い。痛すぎるんだ。と。

そうか、そうなのか。
今の今まで、そう考えたことが自分にはなかった。
半ば必然的に、そしてあるがままなるがままに私は写真を営んできた。
それが痛い、或いは傷む、とは、思ってもみなかった。

そうして、その位置から自分の写真をもう一度見返してみる。
そうすると、
何故だろう、恩師の書いてくれた言葉が、すんなり自分の中に降りてくるのが分かった。

あぁそうか、痛いのだ。傷むのだ。と。

君の何気なく撮った写真が見てみたい、と昔誰からか言われたことがあった。
その時、何を言われているのかちっとも分らなかった。
でも今なら。

なんとなく、わかる気がする。

少しずつ少しずつ、いろんなものが変化している。
私も、周りも。
少しずつ、少しずつ。

それが、生きるということ。
生き続ける、ということ。


2014年2月20日木曜日

ありがとう


みっちゃんは、つまり。
私にとって、完璧な対象、だった。
もちろん私たちが向き合う時、どうにもこうにもうまくかみ合わないときだってあった。
それでも。
そうしたことを全部ひっくるめて。
彼女は私にとって、モデルを越えた完璧な対象、だった。

彼女は自分の引き際をわきまえており、
じきに私の写真からすうっと消えてゆく。
それでも。
彼女と向き合う中で私が培ったものたちは
私の中に確かなものとして残り、
今もそれは、どくどくと脈打って、いる。

余談になるが。
私は彼女の、何より「眼」が好きだった。
何処までもこちらの中心を射ってくる、鋭いまなざしをもった、その大きな大きな瞳が。
何よりも、好き、だった。

今改めて、言おう。
みっちゃん、私が男じゃなくてよかった。
男だったら、私は間違いなく君に惚れていた。
惚れて、写真など撮れない心理状態に陥っていたに違いない。
私は女だったから、かろうじてそうならずに済んだ、
そうならずに済んだおかげで、君と向きあい、こうして写真を残すことができた。

女であってくれて、ありがとう。
君でいてくれて、ありがとう。

また、君がばぁちゃんになる頃、
ぜひ君を撮らせてほしい。
魅力的な皺を刻んだ君の顔を、
ぜひ。



2014年2月17日月曜日

覚悟
















みっちゃんを撮っていると、私は自分の内奥に常に溢れている何かしらを凝視せずにいられなくなる。
それは傷による膿なのか、それともまったく異なるまっさらな水なのか、
わからないけれども。
絶えず溢れ来る何かが、そこに在ることは確か、で。

私は彼女を凝視しながら、
彼女の向こうに間違いなく透けて見える自分をこそ、
撮っていたんだ、と。

だから、生半可な気持ちで彼女と向き合うと、失敗した。
とてもカメラを向けられない気持ちにさせられるのだ。

だからいつもある種の覚悟をもって
彼女に向かった。
でないと、彼女は、そして彼女の向こうの自分は
にやり笑って姿を隠してしまう。

そして。

カメラを挟んで向こうとこちら、
向き合うということはいつだって
真剣勝負なんだ、ということを
私は教えられた。

2014年2月14日金曜日

容れ器
























彼女はそうして私にとってなくてはならない存在になった。
そうして何年くらい彼女と組んで写真を撮ってきただろう。

ずいぶんいろんなものを彼女と共有してきた。
この写真を撮った時は、とある廃墟まで出かけたのだけれども、
このときのこの場所の清浄すぎるといっていいほど澄んだ空気は
私と彼女の心を拭った。
それまで重苦しく、もう帰ろうか、なんて言っていたのが嘘のように
撮影は進んだのだった。

彼女が私の「容れ器」(いれもの)になってくれるから
私は遠慮なく自分を作品に注ぎ込むことを覚えた。
ネガは楽譜、プリントは演奏。
彼女とタッグを組む中で、私が覚えたものは、それに尽きる。
私はだからいつも、引き算をしていた。
ネガ、というひとつの完成された版から、
どれだけ自分の要素を抽出できるか。
そしてそれをどれだけ印画紙に焼き付けられるか。
それに終始した。

彼女と組んだからこそ、今の私の写真が、在る、と言える。




2014年2月12日水曜日

私のカタチ

























みっちゃんは、私にとって特別な存在だった。
普段の賑やかな彼女からは想像がつかないが、カメラの前に立つと彼女はしんとする。
しんとした空気は凛と張りつめて、途端にそこだけ別世界になる。
そして、彼女は。
空っぽになってくれるのだ。
「私」を私が注ぎ込む容器に。

私は彼女によって引き出されたといっても過言じゃぁない。
彼女と最初に出会えたから、私は今のカタチを手にすることができた。

彼女は何処までも空っぽになり、
私はそこに、私を注ぎ込む、という作業。
その作業をひたすら続けた。
彼女の写真があったから、私はプリントでも自分のカタチを見出すことができた。

とんでもなく大きい、とてつもなく大きい、私にとってそういう存在だ。

この写真は、ネガは同一。
素直に焼けば左のようになる。
でもそれじゃぁ私のカタチとは違うから、私は右のように焼く。

これが私のカタチ。
これが私の世界。

彼女との出会いは、私に、私、を知らしめるものだった。

2014年2月10日月曜日

戦友と呼ぶ


君に伝えたいことはきっと、この先もいっぱいいっぱい。
でも、
伝えたくても言葉に為しきれないものがきっとそれ以上にあるんだと思う。
だから。
君と向き合うことだけは、やめたくない。

君は。
私にとって戦友みたいなもんなんだ。
弟のこと、君にとっておじさんである私の弟のことを私はよく戦友と表現するけれども、
君もその、一人なんだよ。
あの、ふたりきり過ごしてきた日々、どれほどそれが重く荒く私たちを翻弄したか。
それでも君がいたから、私は越えてこれた。

「私はママみたいにはならないんだ、絶対」
君は最近よく言うよね。
いいんだ、それで。母みたいにならないように道を選んで歩いていけばいい。
でも。

忘れてくれるなよ。
振り向けば、私はここにいる。
君が振り向きさえすれば、私はいつでもここにいる。

だから。
羽ばたいていけばいい。何処までも。
思い切り。羽ばたいていけ。

2014年2月7日金曜日

どうしてこのひと選んだの


君が一番微妙なお年頃に、私は再婚という道を選んだ。
それについて、ほんの少し、君に、申し訳なさを感じている。

君が物心ついたときには、君は私とふたりきりで、世間で言うところの「お父さん」なんてものは我が家には存在しなかった。
だから、君にとって、大人といわれる年頃の男は、どこか違和感を覚える存在になってしまった。
よく言っていたね。
「どうせ捨ててくんだよ、みんな」
小さい頃、そんなことをぼろぼろと、折々に呟いてたね。

今そう思っているかどうか私は確かめたことはないけれど。
きっとそれは、君の隅々に、染み渡っているに違いない。
そう思うから、ずっと躊躇ってた。

どうしてこのひと選んだの?
君はいつだったか訊いてきたよね。
だから今応えるよ。

君と喧嘩してくれそうだから。

ママはね、君としっかり組み合って、喧嘩してくれる、そんなひと、探してたんだ。
もちろん、ママが好きになったから、ってのは一番にあるけれど、
その次にね、
それが、在る。

いいんだ、すんなりうまくいくなんて思ってない。
君と彼とが、いがいがといがみ合うことなんて、百も承知。
それでもね。
いつか、ね、
あぁ家族になってよかったな、って言えたら、それでいいよなぁって
ママは思ってんだ。

2014年2月5日水曜日

にっと笑って



君の友達が リストカットをしていると知った時
君は友達からカッターナイフをとりあげた。
自分がカッターナイフを預かって、必死に止めにかかった。

それでも友達はやめてくれなくて
傷は増えるばかりで
その時初めて君は
私にぼそり言ってくれたね

ママ、私は役に立たない奴なのかな

違う
そう声を大にして言いたかったけれど
言うほどに君には嘘っぽく聴こえるような気がして
私は逆に にっと笑ってみせたんだった

役に立たない奴なんて
この世界どこを探したっていないんだよ
人という字を見てごらん
ひととひとが寄りかかりあって
できあがってるんだ
ひととひとは
そうやって支え合って存在してるんだ

本当はそんなこと言いたかったんだけど
言葉が下手な母は、ただ黙ってにっと笑っただけで

でも
君も にっと笑ってくれたんだったよね、あの時

そして

友達はうちに遊びに来るようになった
うちで泣いたり笑ったりするようになった

君は

私の知らないところできっとそうやって
いくつも痛んで傷を負って
そうして 成長してるんだって
教えられた気がしたよ

2014年2月3日月曜日

ただそこに


思い出す。
最初の頃、彼女は一生懸命カメラの前でポーズを取ろうとし、ピースサインやら笑顔やら必死になっていたことを。
私がそれを全部、要らないよ、と言った。
きょとん、とした顔で、なんでと訊くから、
そんな無理矢理ポーズ作ったって変じゃん、と言ったら、ぽかーん、とされた。

保育園ではみんな、園長先生が写真撮る時、ポーズするんだよ、決まってるんだよ、と言うから
それはそれ、ママの写真はママの写真、きっと違うんだよ、と応えた。

以来、彼女は、どちらかというと仏頂面でカメラの前に立つ。
ふだんから彼女は、どちらかというとぶすっとしている。
だから、それで、いい。

ただ、そこにいてくれれば、それで十分なんだ。
そこに在ることが、大事なんだ。
―――本当は、そう伝えたいのだけれど。

いつか君が気づいてくれることを
願ってる。

2014年2月1日土曜日

正直に言おう、


正直に言おう。
ここ数年、君の色香に私はやられている。

別に、甘い香りを纏っていようと、リップクリームなんぞをひいていようと、
そんなことにたじろぐような私では、ない。
しかし。
レンズ越し、これでもかというほど濃厚に漂ってくる君の色香には
正直、参る。

すっと眼を逸らしたくなって、すっと意識をどこかに飛ばしたくなってしまう。
ここ数年の君は、眩しすぎる。
母には、眩しすぎる。

母だと思うから眩しすぎるのだな、よし、と
気を取り直してレンズを構えるのだけれど。

そうするともう、私はいつものように君に挑みかかるかのごとく
写真を撮り続けてしまうから。
いつも君に文句を言われるんだ、
「いつまでやってんのー!もう終わりにしようよー!」
って。