2011年5月30日月曜日

破れ敗れて

気づけば自分の足元から伸びる影の長さがどんどんと長くなっており。
あぁ、あっという間に日暮れだ、と気づく。
それでも風は、緩むことなく唸り続けており。髪に手をやれば、じゃりじゃりと砂の鳴る音がするほど。鏡を見なくても分かる、きっと顔中砂だらけだ。

砂紋の合間合間、砂の薄い所を狙って野草がひゅるりと芽を出している。地面に顔をすりつけるような姿勢でもって、彼らは風をうまくやり過ごしており。きっと彼らはここでしっかり生き延びるんだろう。砂がさらに薄くなった場所へ根を伸ばし、手を伸ばし、そうして陣地を広げてゆくに違いない。

海の中もずいぶん変わった。以前はこんな、石ころだらけの海じゃなかった。厚い砂がたっぷりと裸足の足を包み込んでくれたものだった。
そうやって、何もかもが変わってゆく。

世界も。
海も。
砂も。
人の、心、も。

2011年5月27日金曜日

流木

この場所で私はいつも、流木と出会う。私の力なんかじゃ持ち上がりそうにないほど大きなものもあれば、この写真程度のものも。それはその時その時で異なる。
一体何処からこの者たちは流れてくるのだろう。何処をどう旅して、ここまでやって来るのだろう。

そおっと、私はその流木に座ってみる。風と同じ温度の流木。乾いたそれは、思ったよりもずっと頑丈で、私が全体重をかけてもびくともしない。
そのまま空を見上げてみた。雲はびゅうびゅうと全速力で流れてゆく。風が渦を巻いているのがまるでこの眼に見えるかのようだ。

あぁ。この流木も、この砂丘も、この風もこの雲もこの空も。
一体どれほどの時間を重ねて今ここに在るんだろう。
誰も何も言わない。ただ在るがままにこうして今在る。その在るがままという在り方に、私はいつも、恋焦がれてしまうのだ。

2011年5月23日月曜日

連なる柵

つくづく思う。人がどう手を入れようと、自然はそんなもの、これっぽっちも相手にしていないんじゃないかと。何を我の足元でちょろちょろしているのか、と、もしかしたら笑っているかもしれない。
こちらから奥の奥まで続く人によって作られた柵。でもそんなものに見向きもせず、風は唸り、砂は舞い上がり。一瞬たりとも風景は同じではいない。

ここに来るといつも思う。世界とはなんて大きさをもったものなんだろう、と。
そしてまた同時に思う。人間とはなんてちっぽけな存在なのだろう、と。

ちっぽけな人間である私が、一日一日躓いては転んで、倒れて、泣いて、喚いて。きっと世界から見たらそれは、ちゃんちゃらおかしな姿にしか映らないのかもしれない。
それでも。

私はちっぽけな人間で。同時に、この砂粒と一緒、唯一無二の存在で。
だから私は、私を必死に生きようと、努める。

2011年5月19日木曜日

突き刺さり、

ふと見れば、砂紋の只中にぐさり、一本の棒切れが突き刺さっている。その根元からは血が流れたろうか。乾いた砂が棒を取り巻くばかりだけれど。きっと突き刺さったその時は鮮烈な血が流れたに違いない。そう思わせるような痛々しさがあった。

そういえば以前、友人とここに来た折には、こうした流木を集めて焚き火をしたのだった。轟々と唸る風に、火は容赦なく燃え上がり。私たちはその火を黙ってただ見つめていた。

砂紋が生まれ得るだけの砂の量が保たれているのは、今この場所でどのくらいなんだろう。年々その域が狭まっているのは確かだ。今日それを改めて痛感する。私の老いとこの砂丘の老いと、どちらが早いだろう。

しゃがみこんでシャッターを切ろうとする私の顔に、容赦なく砂風は襲って来て。眼も開けているのが苦痛になるほどにそれは激しく。
今おまえたちは、泣いているのか。それとも怒っているのか。

2011年5月16日月曜日

三つの楔

もうひとりじゃなかった。私の今在る世界はここに再現されて、それは確かに「普通」と呼ばれる人達から見たら偽物の世界かもしれないがそれでも私にはそれこそが本物で。
寂しさが半分、減った気がした。
ひとりぼっちさが半分、減った気がした。
気づけば私の隣には、モノクロ写真が、在った。

今私の目の前に立つ三本の楔は、くっきりとその影を砂に落としている。何者も寄せ付けないような厳しさでもって、そこに在る。
なのに、何故だろう。私には同時に、それこそがやさしさであるようにも感じられるのだ。余分な期待を抱かせないだけ、やさしい、と。

人は容易に嘘をつく。やさしい嘘をついて人を抱く。
でもそんな嘘、いずれ剥がれる。
その時になってごめんと謝られるくらいなら、最初から何も要らない。

2011年5月11日水曜日

陰影

かろうじて砂紋が刻まれた砂地に無残にも打ち込まれた楔が幾つ。連なって奥まで続いている。私は眼を細めてそれをじっと見やる。気づけば私の視界は、陰影のみの世界に変わる。

そう、モノクロ写真。
それを本屋で見つけた時、ああと叫び声を上げたかった。ここに在ったかと、そう言いたかった。私の今在る世界がここに在った。

すべてぶっつけ本番。解説書など読んでいる暇は私にはなかった。とにかくそれを自分で再現してみる、それしかなかった。だから突っ走った。
初めてプリントを焼き上げて迎えた朝、私は小さく泣いた。あぁ、これだ、とそう思った。私が昨日見た世界、私が昨日在た世界、それがこの小さな印画紙の上に、確かに刻まれていた。

2011年5月9日月曜日

砕波

その日海は荒れていた。濃く色づいた波が大きく砕けては散る。波打ち際に立っているとその飛沫が容赦なく顔に飛んでくる。
眩し過ぎる陽ざしに視界がくらりと揺れる。そこに波が襲いかかって来る。踏ん張っている足は容赦なく砂に喰いつかれ。慌てて波から走って逃げる。
黒い波だ。そう思った。襲いかかって来るのは青い波ではなく黒い波。くっきりと伸びる水平線から徐々に徐々に膨らんで、大きく口を開けたと思ったらどばんと打ち寄せる。
黒い、黒い波。

色の在るはずの世界が、モノクロにしか見えない時期があった。もう数年前の話だ。
本来色の洪水といってもいいほどの世界であるはずなのに、すべてがモノクロだった。信号も樹も空も何もかも。
どうして私の世界はこんなになってしまったのだろう。最初怯えた。こんな世界にどうやって立ったらいいのか分からなかった。怯えて怯えて、逃げ出したかった。でも、逃げ場は何処にもなかった。
倒れ伏したアスファルトの上、ぼんやり思った。これを伝える術はないんだろうか。ほんのひとかけらでもいい、誰かと共有する術はないのだろうか。

そうして見つけたのが、モノクロ写真だった。

2011年5月6日金曜日

そそり立つ岩壁

砂丘の一番端と思われるところまで歩いてみる。もうこれ以上海に入らずに向こうへ行くことは叶わない、そのぎりぎりのところまで。
そして振り返れば。
そそり立つ岩壁。私は想像してみる。この岸壁も、昔々は砂に覆われていたのかもしれない。覆われて、丸みのある姿をしていたのかもしれない。

砂の流出を何とかして喰い止めようとする人達が、ショベルカーを操って何処からか持ってきた砂を岸壁の上に盛っている。目を凝らして見れば、何人もの労働者がそこにはいて、右へ左へとショベルカーに指示を出している。

もうそこまで、この砂丘は老いさらばえてしまったのか。その思いがつーんと胸に込み上げた。自然が為すことを、人の手などが果たして喰いとめられるのか。私は知らない。でもその労働者たちは黙々と、繰り返し繰り返し運ばれて来る砂を盛り続けるのだった。

それにしても見事な岸壁だ。高さはそうないけれど。荒くれた老人の手のような姿をしている。轟々と唸る風にもびくともせず、そこに在る。
ふと思う。今彼らの眼に、私たちに人間は、一体どんなふうに映っているのだろう。

2011年5月2日月曜日

靡く草叢

砂丘が海へと繋がる坂道に現れたのは草叢。以前来た時この草叢はなかった。ここは砂地だった。そうか、砂が海に流れ去った後、この草叢ができたのか。
私は想像する。流れ去る砂粒たちと入れ替わりに風に乗ってやってくる夥しい数の種。そうして生まれたのだろう、この草叢。

傍らにしゃがみこみ、じっと草叢を見つめる。強風が長く伸びた草をびゅるるびゅるると嬲っている。
眼を閉じ耳を澄ましてみる。私の世界は風の音だけに変わり、それはまさに容赦のない猛り狂う風の音で。私は思わず背筋がぶるりと震えるのを感じる。

ふと思う。
私が生まれるずっとずっと前に、すでに砂丘はここに在り。そうして今、長い時を生きた砂丘は急激に老いさらばえようとしている。人が年老いてやがて死んでゆくように、砂丘も一刻一刻、死に向かっている。
そんな気がしてならない。