2011年10月21日金曜日

雪ん子ちゃん

ぱんっぱんに膨らんだほっぺたをして、その子は私の目の前にいた。私がかつて小さい頃に来ていた上着を着て、ちょこねんとその子は立っていた。

目の前にいるのは私の娘。
でも何だろう。その子は私の娘でありながら同時にどうしようもなく他人で、どうしようもなく遠く、手の届かないところにいるかのようだった。

娘を産んだ時、その瞬間思った。あぁ、他人なんだこの子は、と。おかしな言い分かもしれない、でも私はそう思ったのだ。
よく、我が子は分身、と言う人がいる。そんな言葉をよく耳にする。私はだから、そうじゃなくてはいけない気がしていた。分身のように我が子を思わなくてはならないのだ、と。でもそれは、虐待を受けて育った私には重荷となって圧し掛かっていた。
だから。
あぁ他人なんだ、私とは全く別個の人間なんだ、ということに気づいた瞬間、私はほっとしたのだ。この子は私とは全く別個に生を受けてこの世に生まれてきた、虐待の連鎖なんてものとは関係なく新たに生まれ出てきたのだ、何も心配することは、ない、と。

育てながら、いつもそこには発見があった。私の目線で見る事と、その子の目線で見るものとは全く別個の見え方をした。だから、私はそれを発見するたびに驚いたものだった。このリンゴは私には紅く見えても、この子には緑に見えるのだ、というかのように。

そんな驚きに塗れていたら、虐待なんていう心配はどこかへ消え去っていった。そんなことを心配している隙間さえないほど。

虐待の連鎖。よく言われる台詞だ。そんな言葉が在るが故に、私たちのように虐待されて育った人間は恐れ慄いてしまう。自分もまた虐待したらどうしよう、同じことを繰り返してしまったらどうしよう、と。委縮してしまう。
でも。
新しい生命を、そのままに受け取れば、何も怖いことなどなかったのだ、と、この子が教えてくれた。まっさらな気持ちで始めれば、何も怖いことなどなかったのだ、と。

今私の目の前にいる我が子は、私が幼い頃着ていた服を着て立っている。その姿は私の幼い頃に何処か似ているけれど、でも同時に全く違う。
この子はこの子。唯一無二の存在。
私の分身などでは、決して、ない。